つてゐた。
「さうか。」
 乙彦は、少し蒼くなつて、さうして、なんにも言はなかつた。
 女たちは、手持ちぶさたの様子であつた。
「かへる。いくらだ。」
「待つて。」左手に坐つてゐた断髪の女が、乙彦の膝を軽くおさへた。「困つたわね。雨が降つてるのよ。」
「雨。」
「ええ。」
 逢つたばかりの、あかの他人の男女が、一切の警戒と含羞とポオズを飛び越え、ぼんやり話を交してゐる不思議な瞬間が、この世に、在る。
「いやねえ。あたし、この半襟かけてお店《みせ》に出ると、きつと雨が降るのよ。」
 ちらと見ると、浅黄色のちりめんに、銀糸の芒《すすき》が、雁の列のやうに刺繍されてある古めかしい半襟であつた。
「晴れないかな。」そろそろポオズが、よみがへつて来てゐた。
「ええ。お草履ぢや、たいへんでせう。」
「よし、のまう。」
 その夜は、ふたり、帝国ホテルに泊つた。朝、中年の給仕人が、そつと部屋へはひつて来て、ぴくつと立ちどまり、それから、おだやかに微笑した。
 乙彦も、微笑して、
「バスは、」
「ご随意に。」
 風呂から出て、高野さちよは、健康な、小麦色の頬をしてゐた。乙彦は、どこかに電話をかけた。すぐ
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