るのに、ちつともそんなことに気がつかないで、ただ、あなたを幸福にできるとか、できないとか言つては、お金持ちのふりをしたり、それから、――をかしいわ、自信たつぷりで、へんなことするんだもの。女が肉体だけのものだなんて、だれが一体、そんなばかなことを男に教へたのかしら。自然に愛情が、それを求めたら、それに従へばいいのだし、それを急に、顔いろを変へたり、色んなどぎつい芝居をして、ばかばかしい。女は肉体のことなんか、そんなに重要に思つてゐないわ。ねえ、数枝なんかだつて、さうなんだらう? いくらひとりでお金をためたつて、男と遊んだつて、いつでも淋しさうぢやないか。あたし、男のひと皆に教へてやりたい。女にほんたうに好かれたいなら、ほんたうに女を愛してゐるなら、ほんの身のまはりのことでもいいから、何か用事を言ひつけて下さい。権威を以て、お言ひつけ下さい、つて。地位や名聞を得なくたつて、お金持ちにならなくたつて、男そのものが、立派に尊いのだから、ありのままの御身に、その身ひとつに、ちやんと自信を持つてゐてくれれば、女は、どんなにうれしいか。お互ひ、ちよつとの思ひちがひで、男も女も、ずいぶん狂つてしまつたのね。歯がゆくつて、仕方がない。お互ひ、それに気がついて、笑ひ合つてやり直せば、――幸福なんだがなあ。世の中は、きつと住みよくなるだらうに。」
「ああ、学問をした。」数枝は、ことさらに大げさなあくびをした。「それで、須々木乙彦は、よかつたのかね。」
数枝の無礼を、気にもかけず、
「あのひと、ね、をかしいのよ。とても、子供みたいな、へんな顔をして、僕は、乳房つて、おふくろにだけあるものだと思つてゐた、といふのよ。それが、ちつとも、気取りでも、なんでもないの。恥づかしさうにしてゐたわ。ああ、この人、ずいぶん不幸な生活して来た人なんだな、と思つたら、あたし、うれしいやら、有難いやら、可愛いやら、胸が一ぱいになつて、泣いちやつた。一生、この人のお傍にゐよう、と思つた。永遠の母親、つていふのかしら。私まで、そんな尊いきれいな気持になつてしまつて、あのひと、いい人だつたな。あたしは、あの人の思想や何かは、ちつとも知らない。知らなくても、いいんだ。あの人は、あたしに自信をつけてくれたんだ。あたしだつて、もののお役に立つことができる。人の心の奥底を、ほんたうに深く温めてあげることができると、さう思つたら、もう、そのよろこびのままで、死にたかつた。でも、こんなに、まるまるとふとつて生きかへつて来て、醜態ね。生きかへつて、こんなに一日一日おなじ暮しをして、それでいいのかしらと、たまらなく心細いことがあるわ。大声で叫び出したく思ふことがあるの。どうせいちど死んだ身なんだし、何でもいい、人のお役に立てるものなら立つてあげたい。どんな、つらいことでも、どんな、くるしいことでも、こらへる。」そつと頭をもたげて、「ねえ、数枝。聞いてゐるの? 歴史的さんね、あのひと、あたし、そんなに悪いひとぢやないと思ふわ。あのひと、あたしを女優にするんだと、ずいぶん意気込んでゐるんだけれど、どんなものだらうねえ、数枝だつて、あたしがいつまでも、ここで何もせずに居候してゐたら、やつぱり、気持が重いでせう? また、あたしが女優になつて、歴史的さんがそれで張り合ひのあるお仕事できるやうなら、あたし、女優になつても、いいと思ふの。あたしがその気になりさへすれば、あとは、手筈が、ちやんときまつてゐるんだつて、さう言つてゐたわ。」
「おまへの好きなやうにするさ。名女優になれるだらうよ。」数枝は、ふたたび不気嫌である。「それは、ね、あたしだつて、くさくさすることは、あるさ。この子は、いつまでもここにゐて、いつたいどうするつもりだらうと、さちよの図々しさが憎くなることもあるよ。でも、あたしは、ひとつことを三分《さんぷん》以上かんがへないことに、昔からきめてゐるの。めんだうくさい。どんなに永く考へたつて、結局は、なんのこともない。あたつてみなければ判らないことばかりなんだからね。あほらしい。あたしにだつて、心配なことが、それは、たくさんあるのよ。だから、一つのことは、三分だけ考へて、解決も何もおかまひなしに、すぐつぎに移つて、そいつを三分間だけ考へて、また、つぎのことを三分、そのへんは、なかなか慣れたものよ。心配のたねの引き出しを順々にあけて、ちらと一目《ひとめ》調べてみて、すぐにぴたつとしめて、さうして、眠るの。これ、なかなか健康にいいのよ。どうだい、あたしにだつて、相当の哲学があるだらう。」
「ありがたう。数枝、あなたは、いいひとね。」
数枝は、てれて、わざと他のことを言つた。
「やんだね、みぞれが。」
「ええ。」さちよは、言ひたいだけ言つて、あとは無心であつた。「あした、お天気だといいわね。」
「
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