ひとに頼んで置く。」
さちよは、ひとり残された。提燈をもつて、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞへながら降りていつて、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々と流れてゐる谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼつと鼻のさきに浮んだ。疲れてゐた。ひつそり湯槽にひたつてゐると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞んでいつて、白痴のやうにぽかんとするのだ。なんだか恥づかしい身の上になつてゐながら、それでもばかみたいに、こんなにうつとりしてゐるといふことは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うつとりしてゐたつて、いいではないか。水車は、その重さうなからだを少しづつ動かしてゐて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震へてゐた。
このまま溶けてしまひたいほど、くたくたに疲れ、また提燈持つて石の段々をひとつ、ひとつ、のぼつて部屋へかへるのだ。宿は、かなり大きかつた。まつ暗い長い廊下に十いくつもの部屋がならび、ところどころの部屋の障子が、ぼつと明るく、その部屋部屋にだけは、客のゐることが、わかるのだ。一ばんめの部屋は暗く、二ばんめの部屋も暗く、三ばんめの部屋は明るく、障子がすつとあいて、
「さつちやん。」
「どなた?」おどろく力も失つてゐた。
「ああ、やつぱりさうだ。僕だよ。三木、朝太郎。」
「歴史的。」
「さうさ。よく覚えてゐるね。ま、はひりたまへ。」三木朝太郎は三十一歳、髪の毛は薄くなつてゐるけれども、派手な仕事をしてゐた。劇作家である。多少、名前も知られてゐた。
「おどろきだね。」
「歴史的?」
三木朝太郎は苦笑した。歴史的と言ふのがかれの酔つぱらつたときの口癖であつて、銀座のバアの女たちには、歴史的さんと呼ばれてゐた。
「まさに、歴史的だ。まあ、坐りたまへ。ビイルでも呑むか。ちよつと寒いが、君、湯あがりに一杯、ま、いいだらう。」
歴史的さんの部屋には、原稿用紙が一ぱい散らばつて、ビイル瓶が五、六本、テエブルのわきに並んでゐた。
「かうして、ひとりで呑んでは、少しづつ仕事をしてゐるのだが、どうもいけない。どんな奴でも、僕より上手なやうな気がして、もう、だめだね、僕は。没落だよ。この仕事が、できあがらないことには、東京にも帰れないし、もう十日以上も、こんな山宿に立てこもつて七転八苦、めもあてられぬ仕末さ。さつきね、女中からあなたの来てゐることを聞いたんだ。呆然としたね。心臓が、ぴたと止つたね。夢では、ないか。」
テエブルのむかふにひつそり坐つた小さいさちよの姿を、やさしく眺めて、
「僕は、ばかなことばかり言つてるね。それこそ歴史的だ。てれくさいんだよ。からだばかりわくわくして、どうにもならない。」ふと眼を落して、ビイルを、ひとりで注いで、ひとりで呑んだ。
「自信を、お持ちになつていいのよ。あたし、うれしいの。泣きたいくらゐ。」嘘は、なかつた。
「わかる。わかる。」歴史的は、あわてて、「でも、よかつた。くるしかつたらうね。いいんだ、いいんだ。僕は、なんでも、ちやんと知つてゐる。みんな知つてゐる。こんどの、あのことだつて、僕は、ちつとも驚かなかつた。いちどは、そこまで行くひとだ。そこをくぐり抜けなければ、いけないひとだ。あなたの愛情には、底がないからな。いや、感受性だ。それは、ちよつと驚異だ。僕は、ほとんど、どんな女にでも、いい加減な挨拶で応対して、また、それでちやうどいいのだが、あなたにだけは、それができない。あなたは、わかるからだ。油断ならない。なぜだらう。そんな例外は、ない筈なんだ。」
「いいえ。女は、」すすめられて茶呑茶碗のビイルをのんだ。「みんな利巧よ。それこそなんでも知つてゐる。ちやんと知つてゐる。いい加減にあしらはれてゐることだつて、なんだつて、みんな知つてゐる。知つてゐて、知らないふりして、子供みたいに、雌のけものみたいに、よそつてゐるのよ。だつて、そのはうが、とくだもの。男つて、正直ね。何もかも、まる見えなのに、それでも、何かと女をだました気で居るらしいのね。犬は、爪を隠せないのね。いつだつたかしら、あたしが新橋駅のプラツトフオームで、秋の夜ふけだつたわ、電車を待つてゐたら、とてもスマートな犬が、フオツクステリヤといふのかしら、一匹あたしの前を走つていつて、あたしはそれを見送つて、泣いたことがあるわ。かちかちかちかち、歩くたんびに爪の足音が聞えて、ああ犬は爪を隠せないのだ、と思つたら、犬の正直が、いぢらしくて、男つて、あんなものだ、と思つたら、なほのこと悲しくて、泣いちやつた。酔つたわよ。あたし、ばかね。どうして、こんなに、男を贔負《ひいき》するんだろ。男を、弱いと思ふの。あたし、できることなら、からだを百にして千にしてたくさんの男のひと
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