毎夜、おそくまで、眠らずにいる。何か大きい仕事にでも、とりかかった様子である。さちよも、なまけてはいなかった。毎日、毎日、尾沼栄蔵のサロンに、稽古に出かけて、ごほんごほん変なせきが出て、ゆたかな頬が、細くなるほど、心労つづけた。
初日が、せまった。三木は、こっそり尾沼栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行った。帰って来てからさちよに、君がうまいんじゃないんだ、他の役者が下手くそなんだ、尾沼君は、そう言っていた。君は、こんどの公演で、きっと評判になるだろう、けれども、それは、君がうまいからじゃないんだ、日本の俳優が、それだけ、おくれているということなんだ、そう言っていた。いいかい、ちっとも君がすぐれているわけじゃないんだから、かならず、人の讃辞なんか真《ま》に受けちゃいけないよ。叱りつけるような語調で言って聞かせて、それでも、その夜は、珍らしく老母とさちよを相手に、茶の間でお酒たくさん呑んだ。
初日、はたして成功である。二日目、高野幸代は、もはや、日本的な女優であった。三日目、つまずいた。青年、高須隆哉の舌打が、高野幸代の完璧《かんぺき》の演技に、小さい深い蹉跌《さてつ》を与えた。
高須隆哉が楽屋を訪れたときには、ちょうど一幕目がおわって、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて坐って、大口あいて笑っていた。煙草のけむりが濛々《もうもう》と部屋に立ちこもり、誰か一こと言い出せば、どっと大勢のひとの笑いの浪が起って、和気あいあいの風景である。高須は、その入口に佇立《ちょりつ》した。
さちよは、高須に気がつかず、未だ演技直後の興奮からさめ切らぬ様子で、天井あおいでヒステリックな金切声たてて笑いこけていた。
「ちょっと、あなた、ごめんなさい。」
耳もとで囁き、大きい黒揚羽《くろあげは》の蝶が、ひたと、高須の全身をおおい隠し、そのまま、すっと入口からさらっていって、廊下の隅まで、ものも言わず、とっとと押しかえして、
「まあ。ごめんなさい。」ほっそりした姿の女である。眼が大きく鼻筋の長い淋しい顔で、黒いドレスが似合っていた。「さちよと、逢わせたくなかったの。あの子は、とても、あなたのことを気にしている。せっかく評判も、いいところなんだし、ね、おねがい、あの子を、そっとして置いてやって。あの子、いま、一生懸命よ。つらいのよ。あたしには、それが判る。あら、あなたは、あたしを
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