になるかも知れない。けれども、私には、その役人のヘラヘラ笑いが気にいらなかったのだ。ご自分の言う事に確信の無い証拠だ。ごまかしている証拠だ。いい加減を言っている証拠だ。もしあの、ヘラヘラ笑いの答弁が、官僚の実体だとしたなら、官僚というものは、たしかに悪いものだ。あまりに、なめている。世の中を、なめ過ぎている。私はラジオを聞きながら、その役人の家に放火してやりたいくらいの極度の憎悪を感じたのである。
「おい! ラジオを消してくれ」
 それ以上、その役人のヘラヘラ笑いを、聞くに忍びなかった。私は税金を、おさめない。あんな役人が、あんなヘラヘラ笑いをしているうちは、おさめない。牢《ろう》へはいったって、かまわない。あんなごまかしを言っているうちは、おさめない、と狂うくらいに逆上し、そうしてただもう口惜しくて、涙が出るのである。
 けれども、やはり私は政治運動には興味が無い。自分の性格がそれに向かないばかりか、それに依って自分が救われるとも思っていない。ただ、それは、自分には、うっとうしい許《ばか》りだ。私の視線は、いつも人間の「家」のほうに向いている。
 その夜、私は前の日に医者から貰って置いた鎮静剤を飲み、少し落ちついてから、いまの日本の政治や経済の事は考えず、もっぱら先刻のお役人の生活形態に就いてのみ思いをめぐらしていた。
 あのいまのひとの、ヘラヘラ笑いは、しかし、所謂民衆を軽蔑《けいべつ》している笑いでは無い。決してそんな性質のものでは無かった。わが身と立場とを守る笑いだ。防禦《ぼうぎょ》の笑いだ。敵の鋭鋒を避ける笑いだ。つまり、ごまかしの笑いである。
 そうして、私の寝ながらの空想は、次のような展開をはじめたのである。
 彼はあの街頭の討論を終えて、ほっとして汗を拭き、それから急に不機嫌な顔になってあのひとの役所に引上げる。
「いかがでございました?」
 と下僚にたずねられ、彼は苦笑し、
「いや、もう、さんざんさ」
 と答える。
 討論の現場に居合せたもうひとりの下僚は、
「いえ、いえ、どうして、かいとう乱麻を断つ、というところでしたよ」
 とお世辞を言う。
「かいとうとは、怪しい刀《かたな》と書くんだろう?」
 と彼はやはり苦笑しながら言って、でも内心は、まんざらでない。
「冗談じゃない。どだい、あんな質問者とは、頭の構造がちがいますよ。何せ、こっちは千軍万馬の、……」
 すこしお世辞が過ぎたのに気づいて下僚は素早く話頭を転ずる。
「きょうの録音は、いつ放送になるんです?」
「知らん」
 知っているのだけれども、知らんと言ったほうが人物が大きく鷹揚《おうよう》に見える。彼は、きょうの出来事はすべて忘れたような顔をして、のろのろと執務をはじめる。
「とにかく、あの放送は、たのしみだなあ」
 下僚は、なおも小声でお世辞を言う。しかし、この下僚は、少しも楽しみだと思っていないし、実際その放送の夜には、カストリという奇妙な酒を、へんな屋台で飲み、ちょうど街頭討論放送の時刻に、さかんにげえげえゲロを吐いている。楽しみも何もあったものでない。
 たのしみにしているのは、れいのあの役人と、その家族である。
 いよいよ今夜は、放送である。役人は、その日は、いつもより一時間ほど早く帰宅する。そうして街頭録音の放送の三十分くらい前から家族全部、緊張して受信機の傍に集る。
「いまに、この箱から、お父さんのお声が聞えて来ますよ」
 夫人は末の小さいお嬢さんをだっこして、そう教えている。
 中学一年の男の子は、正坐して、そうしてきちんと両手を膝《ひざ》に置き、実に行儀よく放送の開始を待っている。この子は、容貌も端麗で、しかも学校がよく出来る。そうして、お父さんを心から尊敬している。
 放送開始。
 父は平然と煙草を吸いはじめる。しかし、火がすぐ消える。父は、それに気がつかず、さらにもう一度吸い、そのまま指の間にはさみ、自分の答弁に耳を傾ける。自分が予想していた以上に、自分の答弁が快調に録音せられている。まず、これでよし。大過無し[#「大過無し」に傍点]。官庁に於ける評判もいいだろう。成功である。しかも、これは日本国中に、いま、放送せられているのだ。彼は自分の家族の顔を順々に見る。皆、誇りと満足に輝いている。
 家庭の幸福。家庭の平和。
 人生の最高の栄冠。
 皮肉でも何でも無く、まさしく、うるわしい風景ではあるが、ちょっと待て。
 私の空想の展開は、その時にわかに中断せられ、へんな考えが頭脳をかすめた。家庭の幸福。誰がそれを望まぬ人があろうか。私は、ふざけて言っているのでは無い。家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。
 しかし、それを得るために、彼は私を、口惜し泣きに泣かせた。
 私の寝ながらの空想は一
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング