やよ。」言下に拒否した。顔を少し赤くして、くつくつ笑っている。「お留守のあいだは、いやよ。」
「なんだ、」小坂氏はちょっとまごついて、「何を言うのです。他人に貸すわけじゃあるまいし。」
「お父さん、」と上の姉さんも笑いながら、「そりゃ当り前よ。お父さんには、わからない。お帰りの日までは、どんなに親しい人にだって手をふれさせずに、なんでも、そっくりそのままにして置かなければ。」
「ばかな事を。」小坂氏は、複雑に笑った。
「ばかじゃないわ。」そう呟《つぶや》いて一瞬、上の姉さんは堪えがたいくらい厳粛な顔をした。すぐにまた笑い出して、「うちのモオニングを貸してあげましょう。少しナフタリン臭くなっているかも知れませんけど、ね、」と私のほうに向き直って言って、「うちのひとには、もう、なんにも要《い》らないのです。モオニングが、こんな晴れの日にお役に立ったら、うちのひとだって、よろこぶ事でございましょう。ゆるして下さるそうです。」爽《さわ》やかに笑っている。
「は、いや。」私は意味不明の事を言った。
廊下を出たら、大隅君がズボンに両手を突込んで仏頂面してうろうろしていた。私は大隅君の背中をどんと叩いて、
「君は仕合せものだぞ。上の姉さんが君に、家宝のモオニングを貸して下さるそうだ。」
家宝の意味が、大隅君にも、すぐわかったようである。
「あ、そう。」とれいの鷹揚《おうよう》ぶった態度で首肯《うなず》いたが、さすがに、感佩《かんぱい》したものがあった様子であった。
「下の姉さんは、貸さなかったが、わかるかい? 下の姉さんも、偉いね。上の姉さんより、もっと偉いかも知れない。わかるかい?」
「わかるさ。」傲然《ごうぜん》と言うのである。瀬川先生の説に拠ると、大隅君は感覚がすばらしくよいくせに、表現のひどくまずい男だそうだが、私もいまは全くそのお説に同感であった。
けれども、やがて、上の姉さんが諏訪法性《すわほっしょう》の御兜《おんかぶと》の如くうやうやしく家宝のモオニングを捧げ持って私たちの控室にはいって来た時には、大隅君の表現もまんざらでなかった。かれは涙を流しながら笑っていた。
底本:「太宰治全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1989(昭和64)年2月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月刊行
初出:「改造 第二十六巻第一号」改造社
1944(昭和19)年1月1日発行
入力:増山一光
校正:小林繁雄
2005年10月7日作成
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