し濃くなったくらいであった。瀬川先生もこれで全く御安心なさるだろう、と私は思った。
「おめでとう。」と私が笑いながら言ったら、
「やあ、このたびは御苦労。」と北京の新郎は大きく出た。
「どてらに着換えたら?」
「うむ、拝借しよう。」新郎はネクタイをほどきながら、「ついでに君、新しいパンツが無いか。」いつのまにやら豪放な風格をさえ習得していた。ちっとも悪びれずに言うその態度は、かえって男らしく、たのもしく見えた。
 私たちはやがて、そろって銭湯に出かけた。よいお天気だった。大隅君は青空を見上げて、
「しかし、東京は、のんきだな。」
「そうかね。」
「のんきだ。北京は、こんなもんじゃないぜ。」私は東京の人全部を代表して叱《しか》られている形だった。けれども、旅行者にとってはのんきそうに見えながらも、帝都の人たちはすべて懸命の努力で生きているのだという事を、この北京の客に説明してやろうかしらと、ふと思った。
「緊張の足りないところもあるだろうねえ。」私は思っている事と反対の事を言ってしまった。私は議論を好まないたちの男である。
「ある。」大隅君は昂然と言った。
 銭湯から帰って、早めの夕食をたべた。お酒も出た。
「酒だってあるし、」大隅君は、酒を飲みながら、叱るような口調で私に言うのである。「お料理だって、こんなにたくさん出来るじゃないか。君たちはめぐまれ過ぎているんだ。」
 大隅君が北京から、やって来るというので、家の者が、四、五日前から、野菜やさかなを少しずつ買い集め貯蔵して置いたのだ。交番へ行って応急米の手続きもして置いたのだ。お酒は、その朝、世田谷の姉のところへ行って配給の酒をゆずってもらって来たのだ。けれども、そんな実情を打明けたら、客は居心地の悪い思いをする。大隅君は、結婚式の日まで一週間、私の家に滞在する事になっているのだ。私は、大隅君に叱られても黙って笑っていた。大隅君は五年振りで東京へ来て、謂《い》わば興奮をしているのだろう。このたびの結婚の事に就《つ》いては少しも言わず、ひたすら世界の大勢に就き演説のような口調で、さまざま私を教え諭《さと》すのであった。ああ、けれども人は、その知識の十分の一以上を開陳するものではない。東京に住む俗な友人は、北京の人の諤々《がくがく》たる時事解説を神妙らしく拝聴しながら、少しく閉口していたのも事実であった。私は新聞に発表せられている事をそのとおりに信じ、それ以上の事は知ろうとも思わない極めて平凡な国民なのである。けれども、また大隅君にとっては、この五年振りで逢った東京の友人が、相変らず迂愚《うぐ》な、のほほん顔をしているのを見て、いたたままらぬ技癢《ぎよう》でも感ずるのであろうか、さかんに私たちの生活態度をののしるのだ。
「疲れたろう。寝ないか。」私は大隅君の土産話《みやげばなし》のちょっと、とぎれた時にそう言った。
「ああ、寝よう。夕刊を枕頭《ちんとう》に置いてくれ。」
 翌《あく》る朝、私は九時頃に起きた。たいてい私は八時前に起床するのだが、大隅君のお相手をして少し朝寝坊したのだ。大隅君は、なかなか起きない。十時頃、私は私の蒲団《ふとん》だけさきに畳《たた》む事にした。大隅君は、私のどたばた働く姿を寝ながら横目で見て、
「君は、めっきり尻の軽い男になったな。」と言って、また蒲団を頭からかぶった。

 その日は、私が大隅君を小坂氏のお宅へ案内する事になっていた。大隅君と小坂氏の令嬢とは、まだいちども逢《あ》っていないのである。互いの家系と写真と、それから中に立った山田勇吉君の証言だけにたよって、取りきめられた縁である。何せ北京と、東京である。大隅君だって、いそがしいからだである。見合いだけのために、ちょっと東京へやって来るというわけにも行かなかったようである。きょうはじめて、相逢うのだ。人生の、最も大事な日といっていいかも知れない。けれども大隅君は、どういうものか泰然《たいぜん》たるものであった。十一時頃、やっとお目ざめになり、新聞ないかあと言い、寝床に腹這《はらば》いになりながら、ひとしきり朝刊の検閲をして、それから縁側に出て支那の煙草をくゆらす。
「鬚《ひげ》を、剃《そ》らないか。」私は朝から何かと気をもんでいたのだ。
「そんな必要も無いだろう。」奇妙に大きく出る。私のこせこせした心境を軽蔑しているようにも見える。
「きょうは、でも、小坂さんの家へ行くんだろう?」
「うむ、行って見ようか。」
 行って見ようかも無いもんだ。御自分の嫁さんと逢うんじゃないか。
「なかなかの美人のようだぜ。」私は、大隅君がも少し無邪気にはしゃいでくれてもいいと思った。「君が見ないさきに僕が拝見するのは失礼だと思ったから、ほんのちらと瞥見《べっけん》したばかりだが、でも、桜の花のような印象を受けた。
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