め、髭《ひげ》をこすり、「これは、なんといったものかな? 水族、つまり、おっとせいの類《たぐい》だね、おっとせい、――」全然、だめになった。
先生には、それがひどく残念だったらしい。動物学に於ける自分の造詣《ぞうけい》の浅薄さが、いかん無く暴露せられたという事が、いかにも心外でならなかったらしく、私がそれから一つきほど経って阿佐ヶ谷の先生のお宅へ立寄ってみたら、先生は已《すで》に一ぱしの動物学者になりすましていた。何事に於いても負けたくない先生のことだから、あの水族館に於ける恥辱をすすごうとして、暮夜ひそかに動物学の書物など、ひもどいてみた様子である。私の顔を見るなり、
「なんだ、こないだの一物は、あれは両棲類《りょうせいるい》中の有尾類。」わかり切ったような事を、いかにも得意そうに言うのである。「わからんかな。それ、読んで字の如しじゃないか。しっぽがあるから、有尾類さ。あははは。」さすがに、てれくさくなったらしい。笑った。私も笑った。
「しかし、」と先生は、まじめになって、「あれは興味の深い動物、そうじゃ、まさしく珍動物とでも称すべきでありましょう。」いよいよ鹿爪《しかつめ》らしくなった。私は縁側に腰をかけ、しぶしぶ懐中から手帖を出した。このように先生が鹿爪らしい調子でものを言い出した時には、私がすぐに手帖を出してそれを筆記しなければならぬ習慣になっていた。いちど私が、よせばいいのに、先生のご機嫌をとろうと思って、先生の座談はとても面白い、ちょっと筆記させていただきます、と言って手帖を出したら、それが、いたく先生のお気に召して、それからは、ややもすれば、坐り直してゆっくりした口調でものを言いたがり、私が手帖を出さないと、なんともいえない渋いまずい顔をなさって、そうしてチクリチクリと妙な皮肉めいた事を言いはじめるので、どうしても私は手帖を出さざるを得なくなるのである。私はこの習慣については、実は内心大いに閉口しているのだが、しかし、これとても、私のつまらぬおべっかの報いに違いないのだから、誰をも恨む事が出来ない。以下はその日の、座談筆記の全文である。括弧《かっこ》の中は、速記者たる私のひそかな感懐である。
さて、きょうは、何をお話いたしましょうかな。何も別にお話する程の珍らしい事もございませぬが、(こんなに気取らないと、いい先生なんだが)本当に、いつもいつも似たような話で、皆様も(誰もいやしない)うんざりしたでございましょうから、きょうは一つ、山椒魚という珍動物に就いて、浅学の一端を御|披露《ひろう》しましょう。先日私は、素直な書生にさそわれまして(いやな事を言う)井の頭公園の梅見としゃれたのでありますが、紅梅、白梅、ほつほつと咲きほころび(紅梅は咲いていなかった)つつましく艶《えん》を競《きそ》い、まことに物静かな、仙境とはかくの如きかと、あなた、こなた、夢に夢みるような思いにてさまよい歩き、ほとんど俗世間に在るを忘却いたし(親子どんぶり、親子どんぶり)ふと眼前にあらわれたるは、幽玄なる太古の動物、深山の(言うという字に糸二つか)巒気《らんき》たゆとう尊いお姿、ごそりごそりとうごめいていました。いや、驚かなくともよろしい。これが、その、れいの山椒魚であったというわけなのであります。私たちは、梅が香に酔いしれ、ふらふら歩いて、知らず識らずのうちに公園の水族館にはいっていたのであります。山椒魚。私はその姿を見て直観いたしました。これだ! これこそ私の長年さがし求めていたところの恋人だ。古代そのままのにおい。純粋の、やまと。(ちょっと、こじつけ)これは、全く日本のものだ。私は、おもむろに、かの同行の書生に向い、この山椒魚の有難さを説いて聞かせようと思ったとたんに、かの書生は突如狂人の如く笑い出しましたので、私は実に不愉快になり、説明を中止して匆々《そうそう》に帰宅いたしたのでございます。きょうは皆様に、まずこの山椒魚の学理上の説明を少しお聞かせ致しましょう。日本の大きい山椒魚は、これは世界中でたいへん名高いものだそうでございまして、私が最近、石川千代松博士の著書などで研究いたしましたところに依《よ》れば、いまから二百年ばかり前に独逸《ドイツ》の南の方で、これまで見た事も無い奇妙な形の化石が出まして、或るそそっかしい学者が、これこそは人間の骨だ、人間は昔、こんな醜い姿をして這《は》って歩いていたのだ、恥を知れ、などと言って学界の紳士たちをおどかしたので、その石は大変有名になりまして、貴婦人はこれを憎み、醜男は喝采《かっさい》し、宗教家は狼狽《ろうばい》し、牛太郎は肯定し、捨てて置かれぬ一大社会問題にさえなりかけて来ましたので、当時の学界の権威たちが打ち寄り研究の結果、安心せよ、これは人間の骨ではない、しかしなんだかわからない、
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