の余地もあるようでございます。妙なもので、あのように鈍重に見えていても、ものを食う時には実に素早いそうで、静かに瞑想《めいそう》にふけっている時でも自分の頭の側に他の動物が来ると、パッと頭を曲げて食いつく、是《これ》がどうも実に素早いものだそうで、話に聞いてさえ興醒《きょうざ》めがするくらいで、突如として頭を曲げて、ぱくりとやって、また静かに瞑想にふける。日本の山椒魚は、あのヤマメという魚を食っているのですが、どうしてあんな敏捷な魚をとって食えるか、不思議なくらいであります。それにはあの山椒魚の皮膚の色がたいへん役立っているようであります。かれが谷川の岩の下に静かに身を沈めていると、泥だか何だかさっぱりわからぬ。それでかれは、岩穴の出口のところに大きい頭を置いておきまして、深くものを思うておりますると、ヤマメがちょいとその岩の下に寄って来る、と突如ぱくりと大きな口をあけてそれを食べる、遠くまで追いかけて行くという事はからだが重くてとても出来ない、そのかわり自分の頭のすぐそばに来たなら決して逃がさずぱくりと食べる、それは非常に素早いものだそうであります。昼はたいてい岩の下などにもぐっているのですが、夜はのそのそ散歩に出かける。そうしてずいぶん遠く下流にまでやって来る様子で、たいへん大きな河の河口で網を打っていたら、その網の中にはいっていたなどの話もあるようでございます。だいたい日本のどの辺に多くいるのか、それはあのシーボルトさんの他にも、和蘭《オランダ》人のハンデルホーメン、独逸《ドイツ》人のライン、地理学者のボンなんて人も、ちょいちょい調べていましたそうで、また日本でも古くは佐々木忠次郎とかいう人、石川博士など実地に深山を歩きまわって調べてみて、その結果、岐阜の奥の郡上《ぐじょう》郡に八幡《はちまん》というところがありまして、その八幡が、まあ、東の境になっていて、その以東には山椒魚は見当らぬ、そうして、その八幡から西、中央山脈を伝わって本州の端まで山椒魚はいる、という事にただいまのところではなっているようでございます。周防《すおう》長門《ながと》にもいるそうですし、石州あたりにもいるそうです。それから、もう一つは、琵琶湖の近所から伊勢、伊賀、大和、あの辺に山脈がありますが、あの山脈にもちょいちょい居るそうでございます。その他は、四国にも九州にもいまのところ見当らぬそうで、箱根サンショウウオというのが関東地方に棲息して居りますけれども、あれはまた全く違った構造を持っているもので、せいぜい蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》くらいの大きさでありまして、それ以上は大きくなりませぬ。日本の山椒魚が、とにかく古代の化石と同じくらいに大きいというところに有難さがある訳でありまして、文句無しに世界一ばん、ここに私の情熱もおのずから湧いて来て、力こぶもはいってまいります次第でございます。最近、日本で発見せられた山椒魚の中で一ばん大きいのは、四尺五寸、まず一メートル半というところで、それ以上のものは、ちょっと見当らぬそうでございます。けれども、伯耆国《ほうきのくに》の淀江《よどえ》村というところに住んでいる一老翁が、自分の庭の池に子供の時分から一匹の山椒魚を飼って置いた、それが六十年余も経って、いまでは立派に一丈以上の大山椒魚になって、時々水面に頭を出すが、その頭の幅だけでも大変なもので、幅三尺、荘厳ですなあ、身のたけ一丈、もっとも、この老翁は、実にずるいじいさんで、池の水を必要以上に濁らせて、水面には睡蓮《すいれん》をいっぱいはびこらせて、その山椒魚の姿を誰にも見せないようにたくらんで、そうして自分ひとりで頭の幅三尺、身のたけ一丈、と力んでいるのだそうで、それは或る学者の報告書にも見えていた事でございますが、その学者は、わざわざ伯耆国淀江村まで出かけて行ってその老翁に逢い、もし本当に一丈あるんだったら、よほど高い金を出して買ってもよろしい、ひとめ見せてくれ、と懇願したが、老翁はにやりと笑って、いれものを持って来たか、と言ったそうで、実に不愉快、その学者も「面妖《めんよう》の老頭にして、いかぬ老頭なり」とその報告書にしるしてありますくらいで、地団駄《じだんだ》踏んでくやしがった様が、その一句に依《よ》っても十分に察知できるのであります。その山椒魚は、その後どうなったか、私も実は、それほどの大きい山椒魚を一匹欲しいものだと思っているのでありますが、どうも、いれものを持って来たか、と言われると窮します。バケツぐらいでは間に合いません。けれども、私は、いつの日か、一丈ほどの山椒魚を、わがものにしたい、そうして日夕相親しみ、古代の雰囲気にじかに触れてみたい、深山幽谷のいぶきにしびれるくらい接してみたい、頃日《けいじつ》、水族館にて二尺
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング