くらいの山椒魚を見て、それから思うところあってあれこれと山椒魚に就《つ》いて諸文献を調べてみましたが、調べて行くうちに、どうにかして、日本一ばん、いや日本一ばんは即ち世界一ばんという事になりますが、一ばん大きな山椒魚を私の生きて在るうちに、ひとめ見たいものだという希望に胸を焼かれて、これまた老いの物好きと、かの貧書生(ひどい)などに笑われるのは必定と存じますが、神よ、私はただ、大きい山椒魚を見たいのです、人間、大きいものを見たいというのはこれ天性にして、理窟も何もありやせん! (本音に近し)それは、どのように見事なものだろう、一丈でなくとも六尺でもいい、想像するだに胸がつぶれる。まず今日は、これくらいにして置きましょう。(ばかばかしい)

 その日の談話は以上の如く、はなはだ奇異なるものであった。いくら黄村先生が変人だといっても、こんな奇怪な座談をこころみた事は、あまり例が無い。日によっては速記者も、おのずから襟《えり》を正したくなるほど峻厳な時局談、あるいは滋味|掬《きく》すべき人生論、ちょっと笑わせる懐古談、または諷刺《ふうし》、さすがにただならぬ気質の片鱗《へんりん》を見せる事もあるのだが、きょうの話はまるで、どうもいけない。一つとして教えられるところが無かった。紅梅白梅が艶を競ったの、夢に夢みる思いをしたのといい加減な大嘘ばかり並べて、それからいよいよ山椒魚だ、巒気《らんき》たゆとう尊いお姿が、うごめいていて、そうして夜網にひっかかったの、ぱくりと素早くたべるとか何とか言って、しまいには声をふるわせて、一丈の山椒魚を見たい、せめて六尺でもいい、それはどのように見事だろう、なんて言い出す始末なので、私は、がっかりした。先生も山椒魚の毒気にあてられて、とうとう駄目になってしまったのではなかろうかと私は疑い、これからはもうこんなつまらぬ座談筆記は、断然おことわりしようと、心中かたく決意したのである。その日は私もあまりの事に呆《あき》れて、先生のお顔が薄気味わるくさえ感じられ、筆記がすむとすぐにおいとましたのであるが、それから四、五日経って私は甲州へ旅行した。甲府市外の湯村温泉、なんの変哲もない田圃《たんぼ》の中の温泉であるが、東京に近いわりには鄙《ひな》びて静かだし、宿も安直なので、私は仕事がたまると、ちょいちょいそこへ行って、そこの天保館という古い旅館の一室に自
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