、僕なんかにそんなことたのんだって、仕様がないですよ。」
「ええ、でも、心易いお客さん皆に、たのんで置こうと思って。」
「へんだね。」私は少し笑ってしまった。
女中さんも、片頬を微笑でゆがめて、
「だんだん、としとるばかりですし、ね。私は初めてじゃないのですから、少しおじいさんでも、かまわないのです。そんないいところなぞ望んでいませんから。」
「でも、僕は心当りないですよ。」
「ええ、そんなに急ぐのでないから、心掛けて置いて下さいまし。あのう、私、名刺があるんですけれど、」袂《たもと》から、そそくさと小さい名刺を出した。「裏に、ここの住所も書いて置きましたから、もし、適当のかたが見つかったら、ごめんどうでも、ハガキか何かで、ちょっと教えて下さいまし。ほんとうに、ごめいわくさまです。子供が幾人あっても、私のほうは、かまいませんから。ほんとうに。」
私は黙って名刺を受け取り、袂にいれた。
「探してみますけれど、約束はできませんよ。お勘定をねがいます。」
そのすし屋を出て、家へ帰る途々、頗《すこぶ》るへんな気持ちであった。現代の風潮の一端を見た、と思った。しらじらしいほど、まじめな世紀である。押すことも引くこともできない。家へ帰り、私は再び唖である。黙って妻に、いくぶん軽くなった財布を手渡し、何か言おうとしても、言葉が出ない。お茶漬をたべて、夕刊を読んだ。汽車が走る。イマハ山中《ヤマナカ》、イマハ浜《ハマ》、イマハ鉄橋ワタルゾト思ウマモナク、――その童女の歌が、あわれに聞える。
「おい、炭は大丈夫かね。無くなるという話だが。」
「大丈夫でしょう。新聞が騒ぐだけですよ。そのときは、そのときで、どうにかなりますよ。」
「そうかね。ふとんをしいてくれ。今晩は、仕事は休みだ。」
もう酔いがさめている。酔いがさめると、私は、いつも、なかなか寝つかれない性分なのだ。どさんと大袈裟《おおげさ》に音たてて寝て、また夕刊を読む。ふっと夕刊一ぱいに無数の卑屈な笑顔があらわれ、はっと思う間に消え失せた。みんな、卑屈なのかなあ、と思う。誰にも自信が無いのかなあ、と思う。夕刊を投げ出して、両方の手で眼玉を押しつぶすほどに強くぎゅっとおさえる。しばらく、こうしているうちに、眠たくなって来るような迷信が私にあるのだ。けさの水たまりを思い出す。あの水たまりの在るうちは、――と思う。むりにも自分に
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