閉口なのですが、――でも、」言いかけて、またもや、つまずいてしまった。聖書のことを言おうと思ったのだ。私は、あれで救われたことがある、と言おうと思ったのだが、どうもてれくさくて、言えない。いのちは糧《かて》にまさり、からだは衣《ころも》に勝るならずや。空飛ぶ鳥を見よ、播《ま》かず、刈らず、倉に収めず。野の百合《ゆり》は如何《いか》にして育つかを思え、労せず、紡《つむ》がざるなり、されど栄華を極めしソロモンだに、その服装《よそおい》この花の一つにも如《し》かざりき。きょうありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝らをや。汝ら、之《これ》よりも遥かに優《すぐ》るる者ならずや。というキリストの慰めが、私に、「ポオズでなく」生きる力を与えてくれたことが、あったのだ。けれども、いまは、どうにも、てれくさくて言えない。信仰というものは、黙ってこっそり持っているのが、ほんとうで無いのか。どうも、私は、「信仰」という言葉さえ言い出しにくい。
 それから、いろいろとまた、別の話もしたが、来客は、私の思想の歯切れの悪さに、たいへん失望した様子でそろそろ帰り仕度をはじめた。私は、心からお気の毒に感じた。何か、すっきりしたいい言葉が無いものかなあ、と思案に暮れるのだが、何も無い。私は、やはり、ぼんやり間抜顔《まぬけがお》である。きっと私を、いま少し出世させてやろうと思って、私の様子を見に来てくれたのにちがいないと、その来客の厚志が、よくわかっているだけに、なおさら、自身のぶざまが、やり切れない。お客が帰って、私は机の前に呆然と坐って、暮れかけている武蔵野の畑を眺めた。別段、あらたまった感慨もない。ただ、やり切れなく侘《わ》びしい。
 なんじを訴うる者と共に途《みち》に在《あ》るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人《さばきびと》にわたし、審判人は下役《したやく》にわたし、遂になんじは獄《ひとや》に入れられん。誠に、なんじに告ぐ、一厘《いちりん》も残りなく償わずば、其処《そこ》を出づること能《あた》わじ。(マタイ五の二十五、六。)これあ、おれにも、もういちど地獄が来るのかな? と、ふと思う。おそろしく底から、ごうと地鳴《じなり》が聞えるような不安である。私だけであろうか。
「おい、お金をくれ。いくらある?」
「さあ、四、五円はございましょう。」

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