ちのいやしい女で、彼はこの結婚によつて、叔母ひとりを除いたほかのすべての肉親に捨てられたといふ、月並みのロマンスを匂はせて置いてもよい。さて、このやうな境遇の男が、やがて來る自鬻の生活のために、どうしても小説を書かねばいけなくなつたとする。しかし、これも唐突である。亂暴でさへある。生活のためには、必ずしも小説を書かねばいけないときまつて居らぬ。牛乳配達にでもなればいいぢやないか。しかし、それは簡單に反駁され得る。乘りかかつた船、といふ一言でもつて充分であらう。
いま日本では、文藝復興とかいふ譯のわからぬ言葉が聲高く叫ばれてゐて、いちまい五十錢の稿料でもつて新作家を搜してゐるさうである。この男もまた、この機を逃さず、とばかりに原稿用紙に向つた、とたんに彼は書けなくなつてゐたといふ。ああ、もう三日、早かつたならば。或ひは彼も、あふれる情熱にわななきつつ十枚二十枚を夢のうちに書き飛ばしたかも知れぬ。毎夜、毎夜、傑作の幻影が彼のうすつぺらな胸を騷がせては呉れるのであつたが、書かうとすれば、みんなはかなく消えうせた。だまつて居れば名を呼ぶし、近寄つて行けば逃げ去るのだ。メリメは猫と女のほかに、もうひとつの名詞を忘れてゐる。傑作の幻影といふ重大な名詞を!
男は奇妙な決心をした。彼の部屋の押入をかきまはしたのである。その押入の隅には、彼が十年このかた、有頂天な歡喜をもつて書き綴つた千枚ほどの原稿が曰くありげに積まれてあるのださうである。それを片つぱしから讀んでいつた。ときどき頬をあからめた。二日かかつて、それを全部讀みをへて、それから、まる一日ぼんやりした。そのなかの「通信」といふ短篇が頭にのこつた。それは、二十六枚の短篇小説であつて、主人公が困つてゐるとき、どこからか差出人不明の通信が來てその主人公をたすける、といふ物語であつた。男が、この短篇にことさら心をひかれたわけは、いまの自分こそ、そんなよい通信を受けたいものだと思つたからであらう。これを、なんとかしてうまく書き直してごまかさうと決心したのである。
まづ書き直さねばいけないところは、この主人公の職業である。いやはや。主人公は新作家なのである。かう直さうと思つた。さきに文豪をこころざして、失敗して、そのとき第一の通信。つぎに革命家を夢みて、敗北して、そのとき第二の通信。いまは、サラリイマンになつて家庭の安樂といふことにつき疑ひ惱んで、そのとき第三の通信。こんなふうに、だいたいの見とほしをつけて置く。主人公を、できるだけ文學臭から遠ざけること。さうして革命家をこころざしてからは、文學のブの字も言はせぬこと。自分がそのやうな境遇にあつたとき、心から欲しいと思つた手紙なり葉書なり電報なりを、事實、主人公が受けとつたことにして書くのだ。これは樂しみながら書かねば損である。甘さを恥かしがらずに平氣な顏をして書かう。男は、ふと、「ヘルマンとドロテア」といふ物語を思ひ合せた。つぎつぎと彼を襲ふあやしい妄念を、はげしく首振つて迫ひ拂ひつつ、男はいそいで原稿用紙にむかつた。もつと小さい小さい原稿用紙だつたらいいなと思つた。自分にも何を書いてゐるのか判らぬくらゐにくしやくしやと書けたらいいなと思つた。題を「風の便り」とした。書きだしもあたらしく書き加へた。かう書いた。
――諸君は音信をきらひであらうか。諸君が人生の岐路に立ち、哭泣すれば、どこか知らないところから風とともにひらひら机上へ舞ひ來つて、諸君の前途に何か光を投げて呉れる、そんな音信をきらひであらうか。彼は仕合せものである。いままで三度も、そのやうな胸のときめく風の便りを受けとつた。いちどは十九歳の元旦。いちどは二十五歳の早春。いまいちどは、つい昨年の冬。ああ。ひとの幸福を語るときの、ねたみといつくしみの交錯したこの不思議なよろこびを、君よ知るや。十九歳の元旦のできごとから物語らう。
そこまで書いて、男は、ひとまづぺンを置いた。やや意に滿ちたやうであつた。さうだ、この調子で書けばいいのだ。やはり小説といふものは、頭で考へてばかりゐたつて判るものではない。書いてみなければ。男は、しみじみさう心のうちで呟き、さうしてたいへんたのしかつたといふ。發見した、發見した。小説は、やはりわがままに書かねばいけないものだ。試驗の答案とは違ふのである。よし。この小説は唄ひながら少しづつすすめてゆかう。けふは、ここまでにして置くのだ。男は、もいちどそつと讀みかへしてみてから、その原稿を押入のなかに仕舞ひ込み、それから、大學の制服を着はじめた。男は、このごろたえて學校へ行かないのであるが、それでも一週間に一二度づつ、かうして制服を着て、そはそは外出するのである。彼等夫婦は或る勤人の二階の六疊と四疊半との二間を借りて住ひしてゐるのであつて、男はその勤人の家族
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