島へ吐きつけて、そろって石塀の上から影を消してしまってからも、彼は額に片手をあてたり尻を掻きむしったりしながら、ひどく躊躇《ちゅうちょ》をしていたが、やがて、口角に意地わるげな笑いをさえ含めてのろのろと言いだした。
「いつ来て見ても変らない、とほざいたのだよ。」
 変らない。私には一切がわかった。私の疑惑が、まんまと的中していたのだ。変らない。これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。
「そうか。すると、君は嘘をついていたのだね。」ぶち殺そうと思った。
 彼は私のからだに巻きつけていた片手へぎゅっと力こめて答えた。
「ふびんだったから。」
 私は彼の幅のひろい胸にむしゃぶりついたのである。彼のいやらしい親切に対する憤怒よりも、おのれの無智に対する羞恥《しゅうち》の念がたまらなかった。
「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ。」彼は私の背をかるくたたきながら、ものうげに呟いた。「あの石塀の上に細長い木の札が立てられているだろう? おれたちには裏の薄汚く赤ちゃけた木目だけを見せているが、あのおもてには、なんと書かれてあるか。人間たちはそれを読むのだよ。耳の光るのが日本の猿だ、と書かれてあるのさ。いや、もしかしたら、もっとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ。」
 私は聞きたくもなかった。彼の腕からのがれ、枯木のもとへ飛んで行った。のぼった。梢にしがみつき、島の全貌を見渡したのである。日はすでに高く上って、島のここかしこから白い靄《もや》がほやほやと立っていた。百匹もの猿は、青空の下でのどかに日向《ひなた》ぼっこして遊んでいた。私は、滝口の傍でじっとうずくまっている彼に声をかけた。
「みんな知らないのか。」
 彼は私の顔を見ずに下から答えてよこした。
「知るものか。知っているのは、おそらく、おれと君とだけだよ。」
「なぜ逃げないのだ。」
「君は逃げるつもりか。」
「逃げる。」
 青葉。砂利道。人の流れ。
「こわくないか。」
 私はぐっと眼をつぶった。言っていけない言葉を彼は言ったのだ。
 はたはたと耳をかすめて通る風の音にまじって、低い歌声が響いて来た。彼が歌っているのであろうか。眼が熱い。さっき私を木から落したのは、この歌だ。私は眼をつぶったまま耳傾けたのである。
「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ。」
 彼のそう呼ぶ声を遠くからのように聞いた。それからひくい笑い声も。
 ああ。この誘惑は真実に似ている。あるいは真実かも知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、けれども血は、山で育った私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。
 ――否!

 一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿の遁走《とんそう》が報ぜられた。行方が知れぬのである。しかも、一匹でなかった。二匹である。



底本:「太宰治全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年8月30日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月刊行
入力:柴田卓治
校正:すずきともひろ
2000年12月15日公開
2005年10月20日修正
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