いち、めしの心配がいらないのだよ。」
 彼のそう呼ぶ声を遠くからのように聞いた。それからひくい笑い声も。
 ああ。この誘惑は真実に似ている。あるいは真実かも知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、けれども血は、山で育った私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。
 ――否!

 一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿の遁走《とんそう》が報ぜられた。行方が知れぬのである。しかも、一匹でなかった。二匹である。



底本:「太宰治全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年8月30日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月刊行
入力:柴田卓治
校正:すずきともひろ
2000年12月15日公開
2005年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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