、あいているお部屋の一つ位はあるにきまっている。
「僕の家は、あんな具合に子供が大勢で、うるさくて、とても何も出来やしないし、それに来客があったら困るし、ちょっと知合いの家がありますから、そこへ行って仕事をやってみましょう。」
こんな用事でも口実にしなければ、もう、あのひとと逢うことが出来ないかも知れぬ。
私は勇気を出して、そのお宅の呼鈴を押した。女中が出て来た。あのひとは、いらっしゃらないという。
「お芝居ですか?」
「ええ。」
私は嘘《うそ》をついた。いや、やっぱり、嘘ではない。私にとって、現実の事を言ったのだ。
「それならすぐお帰りになります。先刻、こちらの叔父さんに逢いまして、芝居に引っ張り出したけど、途中で逃げてしまったとおっしゃって、笑っておられましたから。」
女中は、私をちかしい者のように思ったらしく、笑って、どうぞと言った。
私たちは、そのひとの居間にとおされた。正面の壁に、若い男の写真が飾られていた。墓場の無い人って、哀しいわね。私はとっさに了解した。
「ご主人ですね?」
「ええ、まだ南方からお帰りになりませんの。もう七年、ご消息が無いんですって。」
そのひとに、そんなご主人があるとは、実は、私もそのときはじめて知ったのである。
「綺麗な花だなあ。」
と若い編輯者はその写真の下の机に飾られてある一束の花を見て、そう言った。
「なんて花でしょう。」
と彼にたずねられて、私はすらすらと答えた。
「Phosphorescence」
底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年5月30日第1刷発行
1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年1月25日公開
2005年11月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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