い花の名を言った。私は、自分の語学の貧しさを恥かしく思った。
「アメリカにも、招魂祭があるのかしら。」
とそのひとが言った。
「招魂祭の花なの?」
そのひとは、それに答えず、
「墓場の無い人って、哀《かな》しいわね。あたし、痩《や》せたわ。」
「どんな言葉がいいのかしら。お好きな言葉をなんでも言ってあげるよ。」
「別れる、と言って。」
「別れて、また逢うの?」
「あの世で。」
とそのひとは言ったが私は、ああこれは現実なのだ、現実の世界で別れても、また、このひととはあの睡眠の夢の世界で逢うことが出来るのだから、なんでも無い、と頗《すこぶ》るゆったりした気分でいた。
そうして朝、眼が覚めて、わかれたのが現実の世界の出来事で、逢ったのが夢の世界の出来事、そうしてまた別れたのがやはり夢の世界の出来事、もうどっちでも同じことのような気持ちで、床の中でぼんやりしていたら、かねて、きょうが約束の締切日《しめきりび》ということになっていた或る雑誌の原稿を取りに、若い編輯者《へんしゅうしゃ》がやって来た。
私にはまだ一枚も書けていない。許して下さい、来月号か、その次あたりに書かせて下さい、と願ったけれども、それは聞き容《い》れられなかった。ぜひ今日中に五枚でも十枚でも書いてくれなければ困る、と言う。私も、いやそれは困る、と言う。
「いかがでしょう。これから、一緒にお酒を飲んで、あなたのおっしゃることを私が書きます。」
酒の誘惑には私は極度にもろかった。
二人で出て、かねて私の馴染《なじみ》のおでんやに行き、亭主に二階の静かな部屋を貸してもらうように頼んだが、あいにくその日は六月の一日で、その日から料理屋が全部、自粛休業とかをする事になっているのだそうで、どうもお座敷を貸すのはまずい、という亭主の返辞で、それならば、君のところに前から手持のお酒で売れ残ったものがないか、それをゆずって貰《もら》いたい、と私は言い、亭主から日本酒を一升売ってもらって、私たち二人は何のあてどもなく、一升瓶《いっしょうびん》をさげて初夏の郊外を歩き廻った。
ふと、思いついて、あのひとのお宅のほうへ歩いて行った。私はそれまで、そのお宅の前を歩いてみた事はしばしばあったが、まだそのお宅へはいってみたことは無かったのだ。ほかのところで逢ってばかりいたのである。
そのお宅は、かなり広く、家族も少いし
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