さんには、どうも不可解なところが多く、僕は前から、このひとに最も気をつけて来ているのだ。綽名《あだな》はマア坊。
 ついでに、きょうは他《ほか》の助手さんたちの綽名も紹介しましょう。こないだの手紙に、ここの助手さんたちは、油断のならぬところがあって、男のひとたちに片端から辛辣《しんらつ》の綽名を呈上していると言ったが、しかし、また塾生のほうだって負けずに、助手さんたち全部を綽名で呼んでいるのだから、まあ、アイコみたいなものだ。けれども、塾生たちの案出した綽名は、そこは何といっても、やっぱり女性に対するいたわりもあるらしく、いくぶんお手やわらかに出来ている。三浦正子だから、マア坊。なんという事もない。竹中静子だから、竹さん、なんてのはもっとも気がきかない。平凡きわまる。また、眼鏡をかけている助手さんは、出目金《でめきん》とでもいうようなところなのに、遠慮して、キントト。痩《や》せているから、うるめ。淋《さび》しそうな顔をしているから、ハイチャイ。このへんは、まあ、いいほうかも知れないが、どうも少し遠慮している。ひどく、ぶ器量なくせに、パーマネントも物凄《ものすご》く、眼蓋《まぶた》を赤く塗ったりして、奇怪な厚化粧をしているから、孔雀《くじゃく》。ばかにして、孔雀とつけたのだろうが、つけられた当人はかえって大いに得意で、そうよ、あたしは孔雀よ、といよいよ自信を強くしたかも知れない。ちっとも諷刺《ふうし》がきいていない。僕ならば、天女とつける。そうよ、あたしは天女よ、とはまさか思えまい。その他、となかい、こおろぎ、たんてい、たまねぎなど、いろいろあるが、みんな陳腐だ。ただひとり、カクランというのがあって、これはちょっと、うまくつけたものだと思う。顔のはばが広くほっぺたが真っ赤に光っている助手さんがあって、いかにも赤鬼のお面を聯想《れんそう》させるのだが、さすがに、そこは遠慮して避けて、鬼の霍乱《かくらん》というわけで、カクランだ。着想が上品である。
「カクラン。」
「なんだい。」すまして答える。
「がんばれよ。」
「ようし来た。」と元気なものだ。霍乱に頑張《がんば》られては、かなわない。このひとに限らず、ここの助手さんたちは、少し荒っぽいところがあるけれども、本当は気持のやさしい、いいひとばかりのようだ。

     2

 塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。けれども、このひとの笑い顔には特徴がある。これが人気の第一の原因かも知れない。かなり大きな眼が、笑うとかえって眼尻《めじり》が吊《つ》り上って、そうして針のように細くなって、歯がまっしろで、とても涼しく感ぜられる。からだが大きいから、看護婦の制服の、あの白衣がよく似合う。それから、たいへん働き者だという事も、人気の原因の一つになっているかも知れない。とにかく、よく気がきいて、きりきりしゃんと素早く仕事を片づける手際《てぎわ》は、かっぽれの言い草じゃないけれど、「まったく、日本一のおかみさんだよ。」摩擦の時など、他の助手さんたちは、塾生と、無駄口《むだぐち》をきいたり、流行歌を教え合ったり、善く言えば和気藹々《わきあいあい》と、悪く言えばのろのろとやっているのに、この竹さんだけは、塾生たちが何を言いかけても、少し微笑《ほほえ》んであいまいに首肯《うなず》くだけで、シャッシャとあざやかな手つきで摩擦をやってしまっている。しかも摩擦の具合いは、強くも無し弱くも無し、一ばん上手で、そうして念いりだし、いつも黙って明るく微笑んで愚痴も言わず、つまらぬ世間話など決してしないし、他の助手さんたちから、ひとり離れて、すっと立っている感じだ。このちょっとよそよそしいような、孤独の気品が、塾生たちにとって何よりの魅力になっているのかも知れない。何しろ、たいへんな人気だ。越後獅子《えちごじし》の説に拠《よ》ると、「あの子の母親は、よっぽどしっかりした女に違いない」という事である。或《ある》いは、そうかも知れない。大阪の生れだそうで、竹さんの言葉には、いくらか関西|訛《なま》りが残っている。そこがまた塾生たちにとって、たまらぬいいところらしいが、僕は昔から、身体《からだ》の立派な女を見ると、大鯛《おおだい》なんかを思い出し、つい苦笑してしまって、そうして、ただそのひとを気の毒に思うばかりで、それ以上は何の興味も感じないのだ。気品のある女よりも、僕には可愛《かわい》らしい女のほうがよい。マア坊は、小さくて可愛らしいひとだ。僕は、やっぱり、あのどこやら不可解なマア坊に一ばん興味がある。
 マア坊は、十八。東京の府立の女学校を中途退学して、すぐここへ来たのだそうである。丸顔で色が白く、まつげの長い二重瞼《ふたえまぶた》の大きい眼の眼尻が少しさがって、そうしていつもその眼を驚いたみたいにまんまるく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]って、そのため額に皺《しわ》が出来て狭い額がいっそう狭くなっている。滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に笑う。金歯が光る。笑いたくて笑いたくて、うずうずしているようで、なに? と眼をぐんと大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]って、どんな話にでも首をつっ込んで来て、たちまち、けたたましく笑い、からだを前こごみにして、おなかをとんとん叩《たた》きながら笑い咽《むせ》んでいるのだ。鼻が丸くてこんもり高く、薄い下唇《したくちびる》が上唇より少し突き出ている。美人ではないが、ひどく可愛い。仕事にもあまり精を出さない様子だし、摩擦も下手くそだが、何せピチピチして可愛らしいので、竹さんに劣らぬ人気だ。

     3

 君、それにつけても、男って可笑《おか》しなものだね。そんなに好きでもない女の人には、カクランだの、ハイチャイだの、ばかにしたような綽名をどしどしつけるが、いいひとに対しては、どんな綽名も思いつかず、ただ、竹さんだのマア坊だのという極めて平凡な呼び方しか出来ないのだからね。おやおや、きょうは、ばかに女の話ばかりする。でも、きょうは、なぜだか、他の話はしたくないのだ。きのうの、マア坊の、
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
 という可憐《かれん》な言葉に酔わされて、まだその酔いが醒《さ》めずにいるのかも知れない。いつもあんなに笑い狂っているくせに、マア坊も、本当は人一倍さびしがりの子なのかも知れない。よく笑うひとは、よく泣くものじゃないのか。なんて、どうも僕はマア坊の事になると、何だか調子が変になる。そうして、マア坊は、どうやら西脇つくし殿を、おしたい申しているのだから、かなわない。いま僕は、この手紙を、昼食を早くすましていそいで書いているのだが、隣の「白鳥の間」から、塾生たちの笑い声にまじって、かん高い、派手な、マア坊の笑い声がはっきり聞えて来る。いったい、何を騒いでいるのだろう。みっともない。白痴じゃないか。なんて、きょうの僕は、どうも少し調子が変だ。いろいろ、もっと、書きたい事もあったのだけれど、どうも隣室の笑い声が気になって、書けなくなった。ちょっと休もう。
 やっと、どうやら、お隣の騒ぎも、しずまったようだから、も少し書きつづける事にしよう。どうもあの、マア坊ってのは、わからないひとだ。いや、なに、別に、こだわるわけでは無いがね、十七八の女って、皆こんなものなのかしら。善いひとなのか悪いひとなのか、その性格に全然見当がつかない。僕はあのひとと逢《あ》うたんびに、それこそあの杉田玄白がはじめて西洋の横文字の本をひらいて見た時と同じ様に、「まことに艫舵《ろだ》なき船の大海に乗出せしが如《ごと》く、茫洋《ぼうよう》として寄るべなく、只《ただ》あきれにあきれて居たる迄《まで》なり」とでもいうべき状態になってしまう、と言えば少し大袈裟《おおげさ》だが、とにかく多少、たじろぐのは事実だ。どうも気になる。いまも僕は、あのひとの笑い声のために手紙を書くのを中断せられ、ペンを投げてベッドに寝ころんでしまったのだが、どうにも落ちつかなくて堪《た》え難《がた》くなって来て、寝ころびながらお隣の松右衛門殿に訴えた。
「マア坊は、うるさいですね。」そう僕が口をとがらせて言ったら、松右衛門殿は、お隣りのベッドに泰然とあぐらをかいて爪楊子《つまようじ》を使いながら、うむと首肯《うなず》き、それからタオルで鼻の汗をゆっくり拭《ぬぐ》って、
「あの子の母親が悪い。」と言った。
 なんでも母親のせいにする。
 でも、マア坊も、或いは意地の悪い継母なんかに育てられた子なのかも知れない。陽気にはしゃいでいるけれども、どこかに、ふっと淋しい影が感ぜられる。なんて、どうもきょうの僕は、マア坊を、よっぽど好いているらしい。
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
 その時から、どうも僕はへんだ。つまらない女なんだけれどもね。
  九月七日

   死生


     1

 きのうは妙な手紙で失敬。季節のかわりめには、もの皆があたらしく見えて、こいしく思われ、つい、好きだ好きだ、なんて騒ぎ出す始末になるのだ。なあに、そんなに好いてもいないんだよ。すべて、この初秋という季節のせいなのだ。このごろは僕も、まるでもう、おっちょこちょいの、それこそピイチクピイチクやかましくおしゃべりする雲雀《ひばり》みたいになってしまったようだが、しかし、もはやそれに対する自己|嫌悪《けんお》や、臍《ほぞ》を噛《か》みたいほどの烈《はげ》しい悔恨も感じない。はじめは、その嫌悪感の消滅を不思議な事だと思っていたが、なに、ちっとも不思議じゃない。僕は、まったく違う男になってしまった筈《はず》ではなかったか。僕は、あたらしい男になっていたのだ。自己嫌悪や、悔恨を感じないのは、いまでは僕にとって大きな喜びである。よい事だと思っている。僕には、いま、あたらしい男としての爽《さわ》やかな自負があるのだ。そうして僕は、この道場に於《お》いて六箇月間、何事も思わず、素朴《そぼく》に生きて遊ぶ資格を尊いお方からいただいているのだ。囀《さえず》る雲雀。流れる清水。透明に、ただ軽快に生きて在れ!

 きのうの手紙で、マア坊をばかに褒《ほ》めてしまったが、あれは少し取消したい。実は、きょう、ちょっと珍妙な事件があったので、前便の不備の補足かたがた早速御一報に及ぶ次第なのだ。囀る雲雀、流れる清水、このおっちょこちょいを笑う給《たも》うな。
 けさの摩擦は久しぶりでマア坊だった。マア坊の摩擦は下手くそで、いい加減。つくし殿には、ていねいに摩擦してあげるのかも知れないが、僕には、いつでも粗末で不親切だ。マア坊には、僕なんか、まるで道ばたの石ころくらいにしか思われていないのだろうし、どうせそうだろうし、まあ、仕方が無い。けれども僕にとっては、マア坊は、あながち石ころでは無いのだから、僕はマア坊の摩擦の時には息ぐるしく、妙に固くなって、うまく冗談が言えない。冗談を言うどころか、声が喉《のど》にひっからまって、ろくにものが言えなくなるのだ。結局、僕は、不機嫌《ふきげん》みたいに、むっつりしてしまうのだが、そうするとまた、マア坊のほうでも気づまりになるのであろう、僕の摩擦の時だけは、ちっとも笑わず、そうして無口だ。けさの摩擦も、そんな具合の窮屈な、やりきれないものであった。殊《こと》にも、あの、「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって」以来、僕の気持は急速にはりつめて来ているような按配《あんばい》なのだし、それにまた、君への手紙に、マア坊を好きだ好きだと書いてやった直後でもあるし、どうにも、かなわない、ぎこちない気分であった。マア坊は、僕の背中をこすりながら、ふいと小声で言った。
「ひばりが、一ばんいいな。」
 うれしく無かった。何を言っていやがると思った。とってつけたようなそんなお世辞を言えるのは、マア坊が僕を、いい加減に思っている証拠だ。本当に、一ばんい
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