》に、ひとりの自由思想家があって、時の政権に反対して憤然、山奥へ隠れた。時われに利あらずというわけだ。そうして彼は、それを自身の敗北だとは気がつかなかった。彼には一ふりの名刀がある。時来《とききた》らば、この名刀でもって政敵を刺さん、とかなりの自信さえ持って山に隠れていた。十年経《た》って、世の中が変った。時来れりと山から降りて、人々に彼の自由思想を説いたが、それはもう陳腐な便乗思想だけのものでしか無かった。彼は最後に名刀を抜いて民衆に自身の意気を示さんとした。かなしい哉《かな》、すでに錆《さ》びていたという話がある。十年一日の如《ごと》き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎないという意味だ。日本の明治以来の自由思想も、はじめは幕府に反抗し、それから藩閥を糾弾し、次に官僚を攻撃している。君子は豹変《ひょうへん》するという孔子《こうし》の言葉も、こんなところを言っているのではないかと思う。支那に於いて、君子というのは、日本に於ける酒も煙草《たばこ》もやらぬ堅人《かたじん》などを指さしていうのと違って、六芸《りくげい》に通じた天才を意味しているらしい。天才的な手腕家といってもいいだろう。これが、やはり豹変するのだ。美しい変化を示すのだ。醜い裏切りとは違う。キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。狐《きつね》には穴あり、鳥には巣あり、されど人の子には枕《まくら》するところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。一日も安住をゆるされない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ。日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を置いても叫ばなければならぬ事がある。」
「な、なんですか? 何を叫んだらいいのです。」かっぽれは、あわてふためいて質問した。
「わかっているじゃないか。」と言って、越後獅子はきちんと正坐《せいざ》し、「天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳! を叫びたい。」
固パンは眼鏡をはずした。泣いているのだ。僕はこの嵐の一夜で、すっかり固パンを好きになってしまった。男って、いいものだねえ。マア坊だの、竹さんだの、てんで問題にも何もなりゃしない。以上、嵐の燈火と題する道場便り。失敬。
十月十四日
口紅
1
御返事をありがとう。先日の「嵐《あらし》の夜の会談」に就いての僕の手紙が、たいへん君の御気に召したようで、うれしいと思っている。君の御意見に依《よ》れば、越後獅子《えちごじし》こそ、当代まれに見る大政治家で、或《ある》いは有名な偉い先生なのかも知れないという事であるが、しかし、僕にはそのようには思われない。いまはかえって、このような巷間《こうかん》無名の民衆たちが、正論を吐いている時代である。指導者たちは、ただ泡《あわ》を食って右往左往しているばかりだ。いつまでもこんな具合では、いまに民衆たちから置き去りにされるのは明かだ。総選挙も近く行われるらしいが、へんな演説ばかりしていると、民衆はいよいよ代議士というものを馬鹿にするだけの結果になるだろう。
選挙と言えば、きょうこの道場に於《お》いて、とても珍妙な事件が起った。きょうのお昼すぎ、お隣りの「白鳥の間」から、次のような回覧板が発行せられた。曰《いわ》く、婦人に参政権を与えられたるは慶賀に堪えざるも、このごろの当道場に於ける助手たちの厚化粧は見るに忍びざるものあり、かくては、参政権も泣きます、仄聞《そくぶん》するに、アメリカ進駐軍も、口紅毒々しき婦人を以《もっ》てプロステチュウトと誤断すという、まさに、さもあるべし、これはひとり当道場の不名誉たるのみならず、ひいては日本婦人全体の恥辱なり云々《うんぬん》とあって、それから、お化粧の目立ちすぎる助手さんの綽名《あだな》が洩《も》れなく列記されてあり、「右六名のうち、孔雀《くじゃく》の扮装《ふんそう》は最も醜怪なり。馬肉をくらいたる孫悟空《そんごくう》の如《ごと》し。われらしばしば忠告を試みたるも、更に反省の色なし。よろしく当道場より追放すべし。」と書添えられていた。
お隣りの「白鳥の間」には、前から硬骨漢がそろっていて、助手さんたちに人気のある固パンさんなどは、その「白鳥の間」にいたたまらなくなって、こちらの「桜の間」に逃げて来たような按配《あんばい》でもあったのだ。「桜の間」は、越後獅子の人徳のおかげか、まあ、春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》の部屋である。こんどの回覧板も、これはひどい、とまず、かっぽれが不承知を称《とな》えた。固パンも、にやりと笑って、かっぽれを支持した。
「ひどいじゃありませんか。」とかっぽれは、越後獅子にも賛意を求めた。「人間は、一視同仁ですからね、追放しなくたっていいと思いますがね。人間の本然の愛というものは、どんな場合にだって忘れられるわけのものじゃないんだ。」
越後獅子は黙って幽《かす》かに首肯《うなず》いた。
かっぽれは、それに勢いを得て、
「ね、そういうわけのものでしょう? 自由思想ってのは、そんなケチなものである筈《はず》のわけが無いんだ。そちらの若先生はどうです。私の論は間違ってはいないと思うんだ。」と僕にも同意をうながした。
「でも、お隣りの人たちだって、まさか、本当に追放しようとは思ってないんでしょう? ただ、あの人たちの心意気のほどを皆に示そうとしているんじゃないのかな。」と僕が笑いながら言ったら、
「いや、そんなんじゃない。」とかっぽれは言下に否定して、「どだい、婦人参政権と口紅との間には、致命的な矛盾があるべきわけのものではないと思うんだ。あいつらは、ふだん女にもてねえもんだから、こんな時に、仕返しを仕様とたくらんでいるのに違いない。」と喝破《かっぱ》した。
2
そうして、それから、れいの一ばんいいところを言い出し、
「世に大勇と小勇あり、ですからね、あいつらは、小勇というわけのものなんだ。おれの事を、パイパンと言っていやがるんです。かねがね癪《しゃく》にさわっていたんだ。かっぽれという綽名だって、おれはあんまり好きじゃねえのだが、パイパンと言われちゃ、黙って居られねえ。」あらぬ事で激昂《げっこう》して、ベッドから降りて帯をしめ直し、「おれは、この回覧板をたたきかえして来る。自由思想は江戸時代からあるんだ。人間、智仁勇が忘れられないとはここのところだ。じゃ皆さん、私にまかせてくれますね。私はこれを叩《たた》きかえして来るつもりですからね。」顔色が変っている。
「待った、待った。」越後獅子はタオルで鼻の頭を拭《ふ》きながら言った。「あんたが行っちゃいけない。ここは、そちらの先生にでもまかせなさい。」
「ひばりに、ですか?」かっぽれは大いに不満の様子である。「失礼ながら、ひばりには荷が重すぎますぜ。お隣りの奴《やつ》らとは、前々からの行きがかりもあるんだ。今にはじまった事じゃねえのです。パイパンと言われて、黙って引っこんで居られるわけのものじゃないんだ。自由と束縛、というわけのものなんだ。自由と束縛、君子豹変《くんしひょうへん》ということにもなるんだ。あいつらには、キリストの精神がまるでわかってやしねえ。場合に依っては、おれの腕の立つところを見せてやらなくちゃいけねえのだ。ひばりには、無理ですぜ。」
「僕が行って来ます。」僕はベッドから降りて、するりとかっぽれの前を通り抜け、同時に、かっぽれから回覧板を取り上げて、部屋を出た。
「白鳥の間」では、「桜の間」の返事を待ちかねていた様子であった。僕がはいって行ったら、八人の塾生《じゅくせい》がみんなどやどやと寄って来て、
「どうだい、痛快な提案だろう?」
「桜の間の色男たちは弱ったろう。」
「まさか、裏切りやしないだろうな。」
「塾生みんな結束して、場長に孔雀の追放を要求するんだ。あんな孫悟空に、選挙権なんかもったいない。」
などと、口々に言って、ひどくはしゃいでいる。みんな無邪気な、いたずらっ児《こ》のように見えた。
「僕にやらせてくれませんか。」と僕は誰《だれ》よりも大きい声を出してそう言った。
一時、ひっそりしたが、すぐにまた騒ぎ出した。
「出しゃばるな、出しゃばるな。」
「ひばりは、妥協の使者か。」
「桜の間は緊張が足りないぞ。いまは日本が大事な時だぞ。」
「四等国に落ちたのも知らないで、べっぴんの顔を拝んでよだれを流しているんじゃねえか。」
「なんだい、出し抜けに、何をやらせてくれと言うんだい。」
「今晩、就寝の時間までに、」と僕は、背伸びして叫んだ。「お知らせしますから、もしその僕の処置がみなさんの気に入らなかったら、その時には、みなさんの提案にしたがいます。」
又ひっそりとなった。
3
「君は、僕たちの提案に反対なのか。」と、しばらくして、青大将という眼《め》つきの凄《すご》い三十男が僕に尋ねた。
「大賛成です。それに就いて僕に、とっても面白《おもしろ》い計画があるんです。それを、やらせて下さい。お願いします。」
みんな少し、気抜けがしたようだった。
「よろしいですね。ありがとう。この回覧板は、晩までお借り致します。」僕は素早く部屋を出た。これでいいのだ。むずかしい事は無いんだ。あとは竹さんにたのめばいい。
部屋へ帰って来たら、かっぽれは、
「だめだなあ、ひばりは。おれは、廊下へ出て聞いていたんだ。あんな事じゃ、なんにもならんじゃねえか。キリスト精神と君子豹変のわけでも、どんと一発言ってやればよかったんだ。自由と束縛! と言ってやってもいいんだ。やつら、道理を知らねえのだから、すじみちの立った事を言ってやるのが一ばんなのだ。自由思想は空気と鳩《はと》だ、となぜ言ってやらねえのかな。」としきりに口惜《くや》しがっていた。
「晩まで僕に、まかせて置いて下さい。」とだけ言って僕は、自分のベッドに寝ころがった。
さすがに少し疲れたのである。
「まかせろ、まかせろ。」と越後が寝たまま威厳のある声で言ったので、かっぽれもそれ以上は言わずに、しぶしぶ寝てしまった様子である。
僕には別に、計画なんか無いんだ。ただ、この回覧板を竹さんに見せると、竹さんは、いいようにしてくれるだろうと楽観していたのである。二時の屈伸鍛錬のときに、竹さんが部屋の前の廊下を通って、ちょっと僕の方を見たので、僕はすかさず右手で小さく、おいでおいでをした。竹さんは軽く首肯《うなず》いて、すぐに部屋へはいって来た。
「何か御用?」と真面目《まじめ》に尋ねる。
僕は脚の運動をしながら、
「枕元《まくらもと》、枕元。」と小声で言った。
竹さんは枕元の回覧板を見て、手に取り上げ、ざっと黙読してから、
「これ、貸してや。」と落ちついた口調で言ってその回覧板を小脇《こわき》にはさんだ。
「あやまちを改むるに、はばかる事なかれだ。早いほうがいい。」
竹さんは何もかも心得顔に、幽かに首肯き、それから枕元の窓のほうに行って、黙って窓の外の景色を眺《なが》めている様子である。
しばらくして、窓の外に向い、
「源さん、御苦労さまやなあ。」と少しも飾らぬ自然の口調で呟《つぶや》いた。窓の下で、小使いの源さんという老人が、二、三日前から草むしりをはじめているのだ。
「お盆すぎにな、」と源さんは窓の下で答える。「いちどむしったのに、またこのように生えて来る。」
僕は、竹さんの「御苦労さまやなあ」という声の響きに唸《うな》るほど、感心していた。回覧板の事
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