もないんだ。僕たちは、死と紙一枚の隣合せに住んでいるので、もはや死に就いておどろかなくなっているだけだ。この一点を、どうか忘れずにいてくれ給え。僕のこれまでの手紙を見て、君はきっと、この日本の悲憤と反省と憂鬱《ゆううつ》の時期に、僕の周囲の空気だけが、あまりにのんきで明るすぎる事を、不謹慎のように感じたに違いない。それは無理もない事だ。しかし、僕だって阿呆《あほう》ではない。朝から晩まで、ただ、げたげた笑って暮しているわけではない。それは、あたり前の事だ。毎夜、八時半の報告の時間には、さまざまのニュウスを聞かされる。黙って毛布をかぶって寝ても、眠られない夜がある。しかし僕は、いまはそんなわかり切った事はいっさい君に語りたくないのだ。僕たちは結核患者だ。今夜にも急に喀血《かっけつ》して、鳴沢さんのようになるかも知れない人たちばかりなのだ。僕たちの笑いは、あのパンドラの匣《はこ》の片隅《かたすみ》にころがっていた小さな石から発しているのだ。死と隣合せに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁《し》みる。僕たちはいま、謂《い》わば幽《かす》かな花の香にさそわれて、何だかわ
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