わかりだろう。あの日だよ。あの日の正午だよ。ほとんど奇蹟《きせき》の、天来の御声《みこえ》に泣いておわびを申し上げたあの時だよ。
あの日以来、僕は何だか、新造の大きい船にでも乗せられているような気持だ。この船はいったいどこへ行くのか。それは僕にもわからない。未《いま》だ、まるで夢見心地だ。船は、するする岸を離れる。この航路は、世界の誰《だれ》も経験した事のない全く新しい処女航路らしい、という事だけは、おぼろげながら予感できるが、しかし、いまのところ、ただ新しい大きな船の出迎えを受けて、天の潮路のまにまに素直に進んでいるという具合いなのだ。
しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽《かす》かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラの匣《はこ》という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬《しっと》、貪慾《どんよく》、猜疑《さいぎ》、陰険《いんけん》、飢餓、憎悪《ぞうお》など、あらゆる不吉
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