惜しくなったというわけでも無い。ただ、きのう迄《まで》の無理な気取りが消えただけだ。
お父さんは僕のためにこの「健康道場」を選んでくれた。ご承知のように、僕のお父さんは数学の教授だ。数字の計算は上手かも知れないが、お金のお勘定なんてのは一度もした事がないらしい。いつも貧乏なのだから、僕もぜいたくな療養生活など望んではいけない。この簡素な「健康道場」は、その点だけでも、まったく僕に似合っている。僕には、なんの不平も無い。僕は、六箇月で全快するそうだ。あれから一度も喀血しない。血痰《けったん》さえ出ない。病気の事なんか忘れてしまった。この「病気を忘れる」という事が、全快の早道だと、ここの場長さんが言っていた。少し変ったところのある人だ。何せ、結核療養の病院に、健康道場などという名前をつけて、戦争中の食料不足や薬品不足に対処して、特殊な闘病法を発明し、たくさんの入院患者を激励して来た人なのだから。とにかく変った病院だよ。とても面白い事ばかり、山ほどあるんだけど、まあこの次にゆっくりお話しましょう。
僕の事に就いては、本当に何もご心配なさらぬように。では、そちらもお大事に。
昭和二十年
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