う理由でそう思ったのか、わからない。さっき笑って消えた人は、あれだ。たしかに、あそこに、いま、いるのだ。そう思うと、我慢が出来なくなって、そっと起きて、足音を忍ばせて廊下に出た。
洗面所には、青いはだかの電球が一つ灯《とも》っている。のぞいて見ると、絣《かすり》の着物に白いエプロンをかけて、丸くしゃがみ込んで、竹さんが、洗面所の床板を拭《ふ》いていた。手拭《てぬぐい》をあねさんかぶりにして、大島のアンコに似ていた。振りかえって僕を見て、それでも黙って床板を拭いている。顔がひどく痩《や》せ細って見えた。道場の人たちは悉《ことごと》く、まだ、しずかに眠っている。竹さんは、いつもこんなに早く起きて掃除をはじめているのであろうか。僕は、うまく口がきけず、ただ胸をわくわくさせて竹さんの拭き掃除の姿を見ていた。白状するが、僕はこの時、生れてはじめての、おそろしい慾望に懊悩《おうのう》した。夜の明ける直前のまっくらい闇《やみ》には、何かただならぬ気配がうごめいているものだ。
8
どうも、洗面所は、僕には鬼門である。
「竹さん、さっき、」声が咽喉《のど》にひっからまる。喘《あえ》ぎ喘
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