て下さい。私も俗界を離れます。きょうはいいお天気ですが、風が強いです。偉大なる自然! われ泣きぬれて遊ばん! おわかりの事と思う。きょうのこの手紙、よくよく味わい繰返し繰返し熟読されたし。有難《ありがと》うよ、マサ子ちゃん※[#感嘆符二つ、1−8−75] がんばれよ、わがいとしき妹※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 では最後に兄として一言。
[#ここから2字下げ]
相見ずて日《け》長くなりぬ此頃は如何に好去《さき》くやいぶかし吾妹《わぎも》
  正子様[#地から2字上げ]一夫《かずお》兄より」
[#ここで字下げ終わり]
 まず、ざっと、こんなものだ。一夫兄よりなんて、自分の名前に兄を附《つ》けるのも妙な趣向だが、とにかく、これは最後の万葉の歌一つの他は、何が何やらさっぱりわからない。ひどいものだと思う。真似《まね》して書こうたって、書けるものではない。実に、破天荒とでもいうべきだ。けれども、西脇一夫氏という人間は、決して狂人ではない。内気なやさしい人なんだ。あんないい人が、こんな滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な手紙を書くのだから、実際、この世の中には不思議な事があるものだ。マア坊が「意味教えて」と言うのも無理がない。こんな手紙をもらった人は災難だ。悩まざるを得ないだろう。名文と言おうか、魔文と言おうか、どうもこの偉大なる書翰《しょかん》を書き写したら、妙に手首がだるくなって、字がうまく書けなくなって来た。これで失敬しよう。また出直す。
  十月五日

   試煉《しれん》


     1

 一昨日は、どうも、つくし殿の名文に圧倒され、ペンが震えて字が書けなくなり、尻切《しりきれ》とんぼのお手紙になって失礼しました。あの日、夕食後に僕が、あの手紙を読んで呆然《ぼうぜん》としていたら、マア坊が、廊下の窓から、ちらと顔をのぞかせて、「読んだ?」とでもいうような無言のお伺いの眼つきをして見せたので、僕は、軽く首肯《うなず》いてやった。すると、マア坊も、真面目《まじめ》にこっくり首肯いた。ひどく、あの手紙を気にしているらしい。西脇さんも罪な人だと僕はその時、へんな義憤みたいなものを感じた。そうして、僕はマア坊をたまらなく、いじらしく思った。白状すると、僕はその時以来、あらたにまた、マア坊に新鮮な魅力を感じたのだ。鈍感な男ではなくなったというわけだ。いつのまにやら、そうなっていた。どうも秋は、いけない。なるほど、秋は、かなしいものだ。笑っちゃいけない。まじめなのだ。
 全部、話そう。あの、大掃除の翌《あく》る日、マア坊が朝の八時の摩擦に、金盥《かなだらい》をかかえてひょいと部屋の戸口にあらわれ、そうして笑いを噛《か》み殺しているような表情で、まっすぐに僕のところへ来た。こんなに早くマア坊が僕の番にまわって来るとは思いがけなかった事なので、僕はほとんど無意識に、
「よかったね。」と小声で言ってしまった。うれしかったのだ。
「いい加減言ってる。」マア坊はうるさそうに言って、そうして、さっさと僕の摩擦に取りかかり、「けさは竹さんの番だったのよ。竹さんに他《ほか》の御用が出来たから、あたしが代ったの。わるい?」ひどく、あっさりした口調である。僕には、それが少し不満だったので、何も答えず、黙っていた。マア坊も黙っている。次第に息ぐるしく、窮屈になって来た。この道場へ来た当座も、僕はマア坊の摩擦の時には、妙に緊張して具合いの悪い思いをしたものだが、ふたたびあの緊張感がよみがえって来て、どうも、窮屈でかなわなかった。摩擦が、すんだ。
「ありがとう。」僕は寝呆《ねぼ》け声で言った。
「手紙、かえして!」マア坊は、小声で、けれども鋭く囁《ささや》いた。
「枕元《まくらもと》の引出しにある。」僕は仰向に寝たまま顔をしかめて言った。あきらかに僕は不機嫌《ふきげん》だった。
「いいわ、お昼食がすんだら、洗面所へちょっといらっしゃらない? その時かえして。」
 そう言い棄《す》て僕の返辞も待たず、さっさと引き上げて行った。
 不思議なくらいよそよそしかった。こっちがちょっと親切にしてあげると、すぐにあんなに、つんけんする。よろしい、それならば、僕にも考えがある。思い切り、こっぴどく、やっつけてやろう、と僕は覚悟して、お昼の休憩時間を待った。
 お昼ごはんは、竹さんが持って来た。お膳《ぜん》の隅《すみ》に竹細工の小さい人形が置かれてある。顔を挙げて竹さんに、これは? と眼で尋ねたら、竹さんは、顔をしかめて烈《はげ》しくイヤイヤをして、誰《だれ》にも言うな、というような身振りをした。僕は浮かぬ顔をして、うなずいた。全く、不可解であった。

     2

「けさ、道場の急用で、まちへ行って来たのや。」と竹さんは普通の音声で言った。
「お土産か。」と僕は、なぜだか、がっか
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