「おれは、生れてから、こんな赤恥をかいた事はねえのだ。育ちが、悪くねえのです。おれは、おやじにだって殴られた事はねえのだ。それなのに、豚のしっぽ同然にあしらわれて、はらわたが煮えくりかえって、おれは、すじみちの立った挨拶《あいさつ》を仕様と思って、一ばんいい事ばかり言ったのです。一ばんいいところばかり選んで言おうと思ったんだ。本当に、おれは、一ばんのいい事だけを言ってやったつもりなんだ。それなのに、それを、ベッドに寝ころがって知らん振りして、なんだ、あの態度は! くやしくて、残念でならねえのです。なんだ、あの態度は! ひとが一ばんいい事を言っているのに、あの態度は! つくづく世間が、イヤになった。ひとが一ばんいい事を、――」
 だんだん同じ様な事ばかり繰り返して言うようになった。
 越後は、かっぽれをそっとベッドに寝かせてやった。かっぽれは、固パンのほうに背を向けて寝て、顔を両手で覆《おお》って、しばらくしゃくり上げていたが、やがて眠ったみたいに静かになった。八時の屈伸鍛錬の時間になっても、その形のままで、じっとしていた。
 実に妙な喧嘩であった。けれども、昼食の頃にはもう、もとの通りのかっぽれさんにかえっていて、固パンが、れいのらっきょうの空瓶を綺麗に洗って来て、どうぞ、と言って真面目《まじめ》に差出した時にも、すみません、とぴょこんとお辞儀をして素直に受け取り、そうして昼食がすんでから、梅干を一つずつ瀬戸の小鉢から、らっきょうの瓶に、たのしそうに移していた。世の中の人が皆、かっぽれさんのようにあっさりしていたら、この世の中も、もっと住みよくなるに違いないと思われた。
 喧嘩の事に就いては、これくらいにして、ついでにもう一つ簡単な御報告がある。
 きょうの午後の摩擦は、竹さんだった。僕は、竹さんに君のことを少し言った。
「竹さんを、とても好きだと言っている人があるんだけど。」
 竹さんは、摩擦の時には、ほとんど口をきかない。いつも黙って涼しく微笑《ほほえ》んでいる。
「マア坊なんかより、竹さんのほうが十倍もいいと言ってた。」
「誰《だれ》や。」沈黙女史も、つい小声で言った。マア坊よりもいい、というほめ方が、いたく気にいった様子である。女って、あさはかなものだ。
「うれしいかい?」
「好かん。」竹さんはそう一こと言ったきりで、シャッシャッと少し手荒く摩擦をつづける。眉《まゆ》をひそめて、不機嫌《ふきげん》そうな顔だ。
「怒ったの? そのひとは、本当にいいやつなんだがね。詩人だよ。」
「いやらしい。ひばりは、このごろ、あかんな。」左の手の甲で自分の額の汗をぬぐって言った。
「そうかね、それじゃもう教えない。」
 竹さんは黙っていた。黙って摩擦をつづけた。摩擦がすんで引きあげる時に、竹さんはおくれ毛を掻《か》き上げて、妙に笑い、
「ヴェリイ、ソオリイ。」と言った。
 ごめんなさいね、って言ったつもりなんだろう。ちょっと竹さんも、わるくないね。どうだい、君、そのうちにひまを見て、当道場へやって来ないか。君の大好きな竹さんを見せてあげますよ。冗談、失礼。朝夕すずしくなりました。常に衛生、火の用心とはここのところだ。僕と二人ぶんの御勉強おねがい申し上げます。
  九月二十二日

   コスモス


     1

 さっそくの御返事、たのしく拝読いたしました。高等学校へはいると、勉強もいそがしいだろうに、こんなに長い御手紙を書くのは、たいへんでしょう。これからは、いちいちこんな長い御返事の必要はありません。勉強のさまたげになるのではないかと、それが気になります。
 竹さんに、あんな事を言うとはけしからぬとのお叱《しか》り。おそれいりました。けれども、「もう僕は君をお見舞いに行けなくなった」というお言葉には賛成いたしかねます。君も、ずいぶん気が小さい。こだわらずに、竹さんに軽く挨拶《あいさつ》出来るようでなければ、新しい男とは言えません。色気を捨てる事ですね。詩三百、思い邪《よこしま》無し、とかいう言葉があったじゃありませんか。天真|爛漫《らんまん》を心掛けましょう。こないだお隣りの越後獅子《えちごじし》に、
「僕の友だちで、詩の勉強をしている男があるんですが、」と言いかけたら、越後は即座に、
「詩人は、きざだ。」と乱暴極まる断定を下したので、僕は少しむっとして、
「でも、詩人は言葉を新しくすると昔から言われているじゃありませんか。」と言い返した。越後獅子は、にやりと笑って、
「そう。こんにちの新しい発明が無ければいけない。」と無雑作に答えたが、越後も、ちょっと、あなどりがたい事を言うと思った。賢明な君の事だから、すでにお気づきの事と思いますが、どうか、これからは、詩の修行はもとより、何につけても、君の新しい男としての真の面目を見せ
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