っと休もう。
 やっと、どうやら、お隣の騒ぎも、しずまったようだから、も少し書きつづける事にしよう。どうもあの、マア坊ってのは、わからないひとだ。いや、なに、別に、こだわるわけでは無いがね、十七八の女って、皆こんなものなのかしら。善いひとなのか悪いひとなのか、その性格に全然見当がつかない。僕はあのひとと逢《あ》うたんびに、それこそあの杉田玄白がはじめて西洋の横文字の本をひらいて見た時と同じ様に、「まことに艫舵《ろだ》なき船の大海に乗出せしが如《ごと》く、茫洋《ぼうよう》として寄るべなく、只《ただ》あきれにあきれて居たる迄《まで》なり」とでもいうべき状態になってしまう、と言えば少し大袈裟《おおげさ》だが、とにかく多少、たじろぐのは事実だ。どうも気になる。いまも僕は、あのひとの笑い声のために手紙を書くのを中断せられ、ペンを投げてベッドに寝ころんでしまったのだが、どうにも落ちつかなくて堪《た》え難《がた》くなって来て、寝ころびながらお隣の松右衛門殿に訴えた。
「マア坊は、うるさいですね。」そう僕が口をとがらせて言ったら、松右衛門殿は、お隣りのベッドに泰然とあぐらをかいて爪楊子《つまようじ》を使いながら、うむと首肯《うなず》き、それからタオルで鼻の汗をゆっくり拭《ぬぐ》って、
「あの子の母親が悪い。」と言った。
 なんでも母親のせいにする。
 でも、マア坊も、或いは意地の悪い継母なんかに育てられた子なのかも知れない。陽気にはしゃいでいるけれども、どこかに、ふっと淋しい影が感ぜられる。なんて、どうもきょうの僕は、マア坊を、よっぽど好いているらしい。
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
 その時から、どうも僕はへんだ。つまらない女なんだけれどもね。
  九月七日

   死生


     1

 きのうは妙な手紙で失敬。季節のかわりめには、もの皆があたらしく見えて、こいしく思われ、つい、好きだ好きだ、なんて騒ぎ出す始末になるのだ。なあに、そんなに好いてもいないんだよ。すべて、この初秋という季節のせいなのだ。このごろは僕も、まるでもう、おっちょこちょいの、それこそピイチクピイチクやかましくおしゃべりする雲雀《ひばり》みたいになってしまったようだが、しかし、もはやそれに対する自己|嫌悪《けんお》や、臍《ほぞ》を噛《か》みたいほどの烈《はげ》しい悔恨も感じない。はじめは、その嫌悪感の消滅を不思議な事だと思っていたが、なに、ちっとも不思議じゃない。僕は、まったく違う男になってしまった筈《はず》ではなかったか。僕は、あたらしい男になっていたのだ。自己嫌悪や、悔恨を感じないのは、いまでは僕にとって大きな喜びである。よい事だと思っている。僕には、いま、あたらしい男としての爽《さわ》やかな自負があるのだ。そうして僕は、この道場に於《お》いて六箇月間、何事も思わず、素朴《そぼく》に生きて遊ぶ資格を尊いお方からいただいているのだ。囀《さえず》る雲雀。流れる清水。透明に、ただ軽快に生きて在れ!

 きのうの手紙で、マア坊をばかに褒《ほ》めてしまったが、あれは少し取消したい。実は、きょう、ちょっと珍妙な事件があったので、前便の不備の補足かたがた早速御一報に及ぶ次第なのだ。囀る雲雀、流れる清水、このおっちょこちょいを笑う給《たも》うな。
 けさの摩擦は久しぶりでマア坊だった。マア坊の摩擦は下手くそで、いい加減。つくし殿には、ていねいに摩擦してあげるのかも知れないが、僕には、いつでも粗末で不親切だ。マア坊には、僕なんか、まるで道ばたの石ころくらいにしか思われていないのだろうし、どうせそうだろうし、まあ、仕方が無い。けれども僕にとっては、マア坊は、あながち石ころでは無いのだから、僕はマア坊の摩擦の時には息ぐるしく、妙に固くなって、うまく冗談が言えない。冗談を言うどころか、声が喉《のど》にひっからまって、ろくにものが言えなくなるのだ。結局、僕は、不機嫌《ふきげん》みたいに、むっつりしてしまうのだが、そうするとまた、マア坊のほうでも気づまりになるのであろう、僕の摩擦の時だけは、ちっとも笑わず、そうして無口だ。けさの摩擦も、そんな具合の窮屈な、やりきれないものであった。殊《こと》にも、あの、「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって」以来、僕の気持は急速にはりつめて来ているような按配《あんばい》なのだし、それにまた、君への手紙に、マア坊を好きだ好きだと書いてやった直後でもあるし、どうにも、かなわない、ぎこちない気分であった。マア坊は、僕の背中をこすりながら、ふいと小声で言った。
「ひばりが、一ばんいいな。」
 うれしく無かった。何を言っていやがると思った。とってつけたようなそんなお世辞を言えるのは、マア坊が僕を、いい加減に思っている証拠だ。本当に、一ばんい
前へ 次へ
全46ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング