イチクピイチクやかましく囀《さえず》って騒いでいるのさ。だから、君もどうかそのつもりで、これからの僕の手紙を読んでおくれ。何という軽薄な奴《やつ》だ、なんて顔をしかめたりなんかしないでおくれ。
「ひばり。」と今も窓の外から、ここの助手さんのひとりが僕を鋭く呼ぶ。
「なんだい。」と僕は平然と答える。
「やっとるか。」
「やっとるぞ。」
「がんばれよ。」
「よし来た。」
 この問答は何だかわかるか。これはこの道場の、挨拶《あいさつ》である。助手さんと塾生が、廊下ですれちがった時など、必ずこの挨拶を交す事にきまっているようだ。いつ頃《ごろ》からはじまった事か、それはわからぬけれども、まさかここの場長がとりきめたものではなかろう。助手さんたちの案出したものに違いない。ひどく快活で、そうしてちょっと男の子みたいな手剛《てごわ》さが、ここの看護婦さんたちに通有の気風らしい。場長や指導員、塾生、事務員、全部のひとに片端から辛辣《しんらつ》な綽名を呈上するのも、すなわち、この助手さんたちのようである。油断のならぬところがあるのだ。この助手さんたちに就いては、更によく観察し、次便でまたくわしく報告する事にしよう。
 まずは当道場の概説くだんの如しというところだ。失敬。
  九月三日

   鈴虫


     1

 拝啓|仕《つかまつ》り候《そうろう》。九月になると、やっぱり違うね。風が、湖面を渡って来たみたいに、ひやりとする。虫の音も、めっきり、かん高くなって来たじゃないか。僕《ぼく》は君のように詩人ではないのだから、秋になったからとて、別段、断腸の思いも無いが、きのうの夕方、ひとりの若い助手さんが、窓の下の池のほとりに立って、僕のほうを見て笑って、
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
 そんな言葉を聞くと、この人たちには秋がきびしく沁《し》みているのだという事がわかって、ちょっと息がつまった。この助手さんは、僕と同室の西脇《にしわき》つくし殿に、前から好意を寄せているらしいのだ。
「つくしは、いないよ。ついさっき、事務所へ行った。」と答えてやったら、急に不機嫌《ふきげん》になり、言葉まで頗《すこぶ》るぞんざいに、
「あらそう。いなくたっていいじゃないの。ひばりは鈴虫がきらいなの?」と妙な逆襲の仕方をして来たので、僕はわけがわからず、実にまごついた。
 この若い助手さんには、どうも不可解なところが多く、僕は前から、このひとに最も気をつけて来ているのだ。綽名《あだな》はマア坊。
 ついでに、きょうは他《ほか》の助手さんたちの綽名も紹介しましょう。こないだの手紙に、ここの助手さんたちは、油断のならぬところがあって、男のひとたちに片端から辛辣《しんらつ》の綽名を呈上していると言ったが、しかし、また塾生のほうだって負けずに、助手さんたち全部を綽名で呼んでいるのだから、まあ、アイコみたいなものだ。けれども、塾生たちの案出した綽名は、そこは何といっても、やっぱり女性に対するいたわりもあるらしく、いくぶんお手やわらかに出来ている。三浦正子だから、マア坊。なんという事もない。竹中静子だから、竹さん、なんてのはもっとも気がきかない。平凡きわまる。また、眼鏡をかけている助手さんは、出目金《でめきん》とでもいうようなところなのに、遠慮して、キントト。痩《や》せているから、うるめ。淋《さび》しそうな顔をしているから、ハイチャイ。このへんは、まあ、いいほうかも知れないが、どうも少し遠慮している。ひどく、ぶ器量なくせに、パーマネントも物凄《ものすご》く、眼蓋《まぶた》を赤く塗ったりして、奇怪な厚化粧をしているから、孔雀《くじゃく》。ばかにして、孔雀とつけたのだろうが、つけられた当人はかえって大いに得意で、そうよ、あたしは孔雀よ、といよいよ自信を強くしたかも知れない。ちっとも諷刺《ふうし》がきいていない。僕ならば、天女とつける。そうよ、あたしは天女よ、とはまさか思えまい。その他、となかい、こおろぎ、たんてい、たまねぎなど、いろいろあるが、みんな陳腐だ。ただひとり、カクランというのがあって、これはちょっと、うまくつけたものだと思う。顔のはばが広くほっぺたが真っ赤に光っている助手さんがあって、いかにも赤鬼のお面を聯想《れんそう》させるのだが、さすがに、そこは遠慮して避けて、鬼の霍乱《かくらん》というわけで、カクランだ。着想が上品である。
「カクラン。」
「なんだい。」すまして答える。
「がんばれよ。」
「ようし来た。」と元気なものだ。霍乱に頑張《がんば》られては、かなわない。このひとに限らず、ここの助手さんたちは、少し荒っぽいところがあるけれども、本当は気持のやさしい、いいひとばかりのようだ。

     2

 塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹
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