夕食
七時ヨリ七時半マデ     屈伸鍛錬
七時半ヨリ八時半マデ    摩擦
八時半           報告
九時            就寝
[#ここで字下げ終わり]

     3

 こないだも、ちょっと申上げて置いたように、戦争中に焼かれた病院も多いだろうし、また罹災《りさい》しないまでも、物資不足やら手不足やらで閉鎖した病院も少くなかったようで、長期の入院を必要とするたくさんの結核患者、特に僕たちのようにあまり裕福でない患者たちは、行きどころを失ったような有様になったので、この辺には、さいわい敵機の襲撃もほとんど無いし、地方有力の篤志家が二、三打ち寄り、当局の賛助をも得て、もとからこの山腹にあった県の療養所を増築し、いまの田島博士を招聘《しょうへい》して、ここに、物資にたよらぬ独自の結核療養所が出来たというわけなのだ。まず、ざっとこの日課の時間割をごらんになっただけでも、普通の療養所の生活と随分ちがうのがおわかりだろうと思う。病院、あるいは患者などという観念を捨てさせるように仕組まれている。
 院長の事を場長と呼び、副院長以下のお医者は指導員、そうして看護婦さんたちは助手、僕たち入院患者は塾生《じゅくせい》と呼ばれる事になっている。すべてここの田島場長の創案らしい。田島先生がこの療養所へ招聘されて来てからは、内部の機構が一新せられ、患者に対しても独得の療法を施し、非常な好成績で、医学界の注目の的となっているのだそうだ。頭がすっかり禿《は》げているので、五十歳くらいにも見えるが、あれでまだ三十歳代の独身者だとかいう事だ。痩《や》せて長身の、ちょっと前こごみの、そうして、なかなか笑わない人だ。頭の禿げている人は、たいてい端正な顔をしているものだが、田島先生も、卵に目鼻というような典雅な容貌《ようぼう》の持主である。そうして、これも頭の禿げた人に特有の、れいの猫《ねこ》みたいな陰性の気むずかしさを持っている人のようである。ちょっと、こわい。毎日、午前十時にこの場長は、指導員、助手を引き連れて場内を巡回するのだが、その時には、道場全体が、しんとなる。塾生たちも、この場長の前では、おそろしく神妙にしている。けれども、陰ではこっそり綽名で呼んでいる。清盛《きよもり》というのだ。
 さて、それでは当道場の日課について、も少しくわしく説明しましょうか。屈伸鍛錬というのは、一口に言えば、手足と、腹筋の運動だ。こまかく書くと君は退屈するだろうから、ごく大ざっぱに要点だけ言うと、まあ、ベッドの上に仰向に大の字に寝たまま、手の指、手首、腕と順次に運動をはじめて、次に腹をへこましたり、ふくらましたり、ここはなかなかむずかしく練習を要するところで、また屈伸鍛錬の一ばん大事なところでもあるらしく、その次には足の運動、脚の筋肉をいろいろに伸ばしたり、ゆるめたりして、そうして大体、一とおり鍛錬を終る。そうして、一度終れば、また手の運動から繰り返し、三十分間、時間のある限りつづけていなければならぬ。これを前に記した時間割のとおり午前二回、午後三回、毎日やるんだから、楽じゃない。これまでの医学の常識から言えば、結核患者がこんな運動をするのは、とんでもない危険な事とされていたらしいが、これもまた、戦時の物資不足から生まれた新療法の一つであろう。当道場では、たしかに、この運動を熱心にやる人ほど、恢復《かいふく》が早いそうだ。
 次に摩擦の事を少し書こう。これも当道場独得のものらしい。そうしてこれは、ここの陽気な助手さんたちの役目なのだ。

     4

 摩擦に用いるブラシは、散髪の時に用いる硬い毛のブラシの、あの毛を、ほんの少しやわらかくしたようなものである。だから、はじめのうちは、これでこすられると相当に痛く、皮膚のところどころに摩擦負けのブツブツの生ずるような事さえある。けれども、たいていは一週間ほどで慣れてしまう。
 摩擦の時間が来ると、れいの陽気な助手さんたちが、おのおの手わけして、順々に全部の塾生たちに摩擦してまわるのである。小さい金盥《かなだらい》に、タオルを畳んでいれて、それを水にひたして、ブラシをそのタオルに押しつけては水をつけ、それでもって、シャッシャッと摩擦するのである。摩擦は原則として、ほとんど全身にほどこす。入場後の一週間ほどは手足だけであるが、それからのちは、全身になる。横向きに寝て、まず手、それから足、胸、腹と摩擦して、次に寝がえりを打って反対側の手、足、胸、腹、背中、背中、腰と移って行くのである。慣れると、なかなか気持のよいものである。殊《こと》に、背中をこすってもらう時の気持は、何とも言えない。うまい助手さんもあるが、へたくその助手さんもある。
 けれども、この助手さんたちの事に就いては、後でまた書く事にしよう。

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