ための握手だったのか、わけがわからないけれども、あの時には、とてもじっとしては居られず握手でもしなければ、おさまらぬ気持だったものね。君も僕も、ずいぶん興奮していた。「オルレアンの少女」が済んだ時、君は、
「じゃあ、失礼しよう。」と奇怪な嗄《しわが》れた声で言い、僕も首肯いて、君を送って廊下へ出て、
「たしかだ!」と二人、同時に叫んだ。

     5

 ここまでの事は、君もご存じの筈だが、さて、君とわかれて、ひとりで部屋へ引返した時には、僕の気持は興奮を通り越して、ほとんど蒼《あお》ざめるほどの恐怖の状態であった。わざと越後を見ないようにして、僕はベッドに仰向けに寝ころがったが、不安と恐怖と焦躁とが奇妙にいりまじった落ちつかない気持で、どうにも、かなわなくなって、とうとう小さい声で、
「花宵先生!」と呼びかけてしまった。
 返辞が無い。僕は、思い切って、ぐいと花宵先生のほうに顔をねじ向けた。越後は黙々として屈伸鍛錬をはじめている。僕も、あわてて運動にとりかかった。脚を大の字にひらき、両方の手の指を、小指から順に中へ折り込みながら、
「あの歌を誰《だれ》が作ったか、なんにも知らずに歌っていたんでしょうね。」と割に落ちついて尋ねる事が出来た。
「作者なんか、忘れられていいものだよ。」と平然と答えた。いよいよ、この人が、花宵先生である事は間違い無いと思った。
「いままで、失礼していました。さっき友人に教えられて、はじめて知ったのです。あの友人も僕も、小さい頃から、あなたの詩が好きでした。」
「ありがとう。」と真面目に言って、「しかし、いまでは越後のほうが気楽だ。」
「どうして、このごろ詩をお書きにならないのですか。」
「時代が変ったよ。」と言って、ふふんと笑った。
 胸がつまって僕は、いい加減の事は言えなくなった。しばらく二人、黙って運動をつづけた。突如、越後が、
「人の事なんか気にするな! お前は、ちかごろ、生意気だぞ!」と、怒り出した。僕は、ぎょっとした。越後が、こんな乱暴な口調で僕にものを言ったのは、いままで一度も無かった。とにかく早くあやまるに限る。
「ごめんなさい。もう言いません。」
「そうだ。何も言うな。お前たちには、わからん。何も、わからん。」
 実に、まったく、気まずい事になってしまった。詩人というものは、こわいものだ。何が失礼に当るか、わかったもんじゃない。その日一日、僕たちは一ことも言葉を交さなかった。助手さんたちが摩擦に来て、僕にいろいろ話かけても、僕は終始ふくれた顔をして、ろくに返辞もしなかった。内心は、マア坊なんかに、お隣りの越後こそ実に「オルレアンの少女」の作者なのだという事を知らせて、驚ろかしてやりたくて、うずうずしていたのだが、越後から「何も言うな」と口どめされているし、まあ、仕方なく、ゆうべは泣き寝入りの形だったのだ。
 けれども、けさ、思いがけなく、この激怒せる花宵先生と、あっさり和解できて、ほっとした。けさ、久し振りで越後の娘さんが、越後を見舞いにやって来た。キヨ子さんといって、マア坊と同じくらいの年恰好《としかっこう》で、痩《や》せて、顔色の悪い、眼の吊《つ》り上ったおとなしい娘さんだ。僕たちは、ちょうど朝ごはんの最中だった。娘さんは、持って来た大きい風呂敷《ふろしき》包をほどきながら、
「つくだ煮を少し作って来ましたけど。」
「そうか。いますぐいただこう。出しなさい。お隣りのひばりさんにも半分あげなさい。」
 おや? と思った。越後は今まで僕を呼ぶのに、そちらの先生だの、書生さんだの、小柴《こしば》君だのというばかりで、ひばりさんなんて変に親しげな呼び方をした事は一度も無かったのだ。

     6

 娘さんは、僕のところへ、つくだ煮を持って来た。
「いれものが、ございますかしら。」
「はあ、いや、」僕は、うろたえて、「そこの戸棚《とだな》に。」と言いながら、ベッドから降りかけたら、
「これでございますか?」娘さんは、しゃがんで僕のベッドの下の戸棚から、アルマイトの弁当箱を取り出した。
「はあ、そうです。すみません。」
 ベッドの下にうずくまって、つくだ煮をその弁当箱に移しながら、
「いま、おあがりになります?」
「いいえ、もう、食事はすみました。」
 娘さんは弁当箱をもとの戸棚に収めて立ち上り、
「まあ、綺麗《きれい》。」
 と君が滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に投げ入れて行ったあの菊の花をほめたのだ。君があの時、竹さんに直してもらえ、なんて要らない事を言ったので、なんだか竹さんに頼むのも、てれくさくなって、また、マア坊に頼むのも、わざとらしいし、あの花は、ついあのままになっていたのだ。
「きのう友人が、いい加減に挿《さ》して行ったのです。直してくれるひとも無いし。」
 娘さんは、ちらと越
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