た。
助手さんたちは、それでも大いに感心して聞いている。かっぽれには、僕以上に固パンの英語が癇《かん》にさわるらしく、小さい声でれいの御自慢の都々逸《どどいつ》、
『末は博士か大臣か、よしな書生にゃ金が無い』とかいうのを歌ったりして、とにかく、さかんに固パンを牽制《けんせい》しようとあせっている様子であった。
僕はしかし、元気だ。きょう体重をはかったら、四百|匁《もんめ》ちかく太っていた。断然、好調である。
九月十六日
衛生について
1
こないだから、女の事ばかり書いて、同室の諸先輩に就いての報告を怠っていたようだから、きょうは一つ「桜の間」の塾生《じゅくせい》たちの消息をお伝え申しましょう。きのう「桜の間」では喧嘩《けんか》があった。とうとう、かっぽれが固パンに敢然と挑戦《ちょうせん》したのだ。
原因は梅干である。
それが甚《はなは》だ、どうにもややこしい話なのである。かっぽれには、かねて、瀬戸の小鉢《こばち》があって、それに梅干をいれて、ごはんの度に、ベッドの下の戸棚《とだな》から取出しては梅干をつついていた。けれども、このごろ、その梅干にかびが生えはじめた。かっぽれは、これは容《い》れ物の悪いせいではあるまいかと考えた。小鉢の蓋《ふた》がよく合わぬので、そこから細菌が忍び入り、このようにかびが生える結果になったのに違いないと考えた。かっぽれは、なかなか綺麗《きれい》好きなひとなんだ。どうにも気になる。何かよい容れ物があるまいかと、かっぽれは前から思案にくれていたというような按配《あんばい》なのだ。ところが、きのうの朝食の時、お隣りの固パンがやはり、食事の度毎《たびごと》に持出していたらっきょうの瓶《びん》が、ちょうど空いたのを、かっぽれは横目で見とどけ、あれがいいと思った。口も大きいし、そうして、しっかり栓《せん》も出来る。いかなる細菌も、あの瓶の中には忍び込む事が出来まい。もう空いたのだから、固パンも気軽く貸してくれるだろう。固パンに頭を下げるのは癪《しゃく》だが、でも、細菌を防ぐためには、どうしてもあのらっきょうの瓶が必要である。衛生を重んじなければならぬ。そう思って、かっぽれは、食事がすんでから、おそるおそる固パンに空瓶の借用を申し出た。
固パンは、かっぽれの顔をまっすぐに見て、
「こんなものを、どうするのです。」
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