だめだ。ふだんあんなに利巧そうに涼しく振舞っているだけに、こんな愚行を演じた時には、なおさら目立って、きたならしくなる。残念な事だ。竹さんは、もっとしっかりしなければいけない。これがマア坊だったら、どんな失敗を演じても、かえって可愛く、いじらしさが増すというような事もないわけではないのだろうが、どうも、立派な女の、へまは、困る。と、ここまでお昼ごはんの後の休憩を利用して書いたのだが、突然、廊下の拡声機が、新館の全塾生はただちに新館バルコニイに集合せよ、という命令を伝えた。
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便箋《びんせん》を片附《かたづ》けて二階のバルコニイに行ってみると、きのうの深夜、旧館の鳴沢イト子とかいう若い女の塾生が死んで、ただいま沈黙の退場をするのを、みんなで見送るのだという事であった。新館の男の塾生二十三名、そのほか新館別館の女の塾生六名、緊張した顔でバルコニイに、四列横隊みたいな形で並び、出棺を待った。しばらくして、白い布に包まれた鳴沢さんの寝棺が、秋の陽《ひ》を浴びて美しく光り、近親の人たちに守られながら、旧館を出て松林の中の細い坂路《さかみち》を、アスファルトの県道の方へ、ゆるゆると降りて行った。鳴沢さんのお母さんらしい人が、歩きながらハンケチを眼にあて、泣いているのが見えた。白衣の指導員や助手の一団も、途中まで、首をたれて、ついて行った。
よいものだと思った。人間は死に依《よ》って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧《かんぺき》だが、死んだとたんに、ただの死骸《しがい》だ。完成も未完成もない、ただの無に帰する。人間はそれに較《くら》べると、まるで逆である。人間は、死んでから一ばん人間らしくなる、というパラドックスも成立するようだ。鳴沢さんは病気と戦って死んで、そうして美しい潔白の布に包まれ、松の並木に見え隠れしながら坂路を降りて行く今、ご自身の若い魂を、最も厳粛に、最も明確に、最も雄弁に主張して居《お》られる。僕たちはもう決して、鳴沢さんを忘れる事が出来ない。僕は光る白布に向って素直に合掌した。
けれども、君、思い違いしてはいけない。僕は死をよいものだと思った、とは言っても、決してひとの命を安く見ていい加減に取扱っているのでも無いし、また、あのセンチメンタルで無気力な、「死の讃美者《さんびしゃ》」とやらで
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