どは、その「白鳥の間」にいたたまらなくなって、こちらの「桜の間」に逃げて来たような按配《あんばい》でもあったのだ。「桜の間」は、越後獅子の人徳のおかげか、まあ、春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》の部屋である。こんどの回覧板も、これはひどい、とまず、かっぽれが不承知を称《とな》えた。固パンも、にやりと笑って、かっぽれを支持した。
「ひどいじゃありませんか。」とかっぽれは、越後獅子にも賛意を求めた。「人間は、一視同仁ですからね、追放しなくたっていいと思いますがね。人間の本然の愛というものは、どんな場合にだって忘れられるわけのものじゃないんだ。」
 越後獅子は黙って幽《かす》かに首肯《うなず》いた。
 かっぽれは、それに勢いを得て、
「ね、そういうわけのものでしょう? 自由思想ってのは、そんなケチなものである筈《はず》のわけが無いんだ。そちらの若先生はどうです。私の論は間違ってはいないと思うんだ。」と僕にも同意をうながした。
「でも、お隣りの人たちだって、まさか、本当に追放しようとは思ってないんでしょう? ただ、あの人たちの心意気のほどを皆に示そうとしているんじゃないのかな。」と僕が笑いながら言ったら、
「いや、そんなんじゃない。」とかっぽれは言下に否定して、「どだい、婦人参政権と口紅との間には、致命的な矛盾があるべきわけのものではないと思うんだ。あいつらは、ふだん女にもてねえもんだから、こんな時に、仕返しを仕様とたくらんでいるのに違いない。」と喝破《かっぱ》した。

     2

 そうして、それから、れいの一ばんいいところを言い出し、
「世に大勇と小勇あり、ですからね、あいつらは、小勇というわけのものなんだ。おれの事を、パイパンと言っていやがるんです。かねがね癪《しゃく》にさわっていたんだ。かっぽれという綽名だって、おれはあんまり好きじゃねえのだが、パイパンと言われちゃ、黙って居られねえ。」あらぬ事で激昂《げっこう》して、ベッドから降りて帯をしめ直し、「おれは、この回覧板をたたきかえして来る。自由思想は江戸時代からあるんだ。人間、智仁勇が忘れられないとはここのところだ。じゃ皆さん、私にまかせてくれますね。私はこれを叩《たた》きかえして来るつもりですからね。」顔色が変っている。
「待った、待った。」越後獅子はタオルで鼻の頭を拭《ふ》きながら言った。「あんたが行っちゃいけな
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