いしたものだ。僕もあんな、正しい愛情の人になるつもりだ。僕は一日一日高く飛ぶ。周囲の空気が次第に冷く澄んで来る。
男児|畢生《ひっせい》危機一髪とやら。あたらしい男は、つねに危所に遊んで、そうして身軽く、くぐり抜け、すり抜けて飛んで行く。
こうして考えてみると、秋もまた、わるくないようだ。少し肌寒《はだざむ》くて、いい気持。
マア坊の夢は悪い夢で、早く忘れてしまいたいが、竹さんの夢は、もしこれが夢であったら、永遠に醒《さ》めずにいてくれるといい。
のろけなんかじゃあ、ないんだよ。
十月七日
固パン
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拝啓。ひどい嵐《あらし》だったね。野分《のわき》というものなのかしら。これでは、アメリカの進駐軍もおどろいているだろう。E市にも、四、五百人来ているそうだが、まだこの辺には、いちども現われないようだ。矢鱈《やたら》におびえて、もの笑いになるな、と場長からの訓辞もあったし、この道場の人たちは、割合いに泰然としている。ただひとり、助手のキントトさんだけ、ちょっとしょんぼりしていて、皆にからかわれている。キントトさんは、二、三日前、雨の中を用事でE市に行って来たそうだが、道場へ帰って夜、皆と一緒に就寝してから、シクシク泣いた。どうしたの? どうしたの? と皆にたずねられて、キントトさんのしゃくり上げながら物語るのを聞けば、おおよそ次の如《ごと》き事情であったという。
キントトさんは、まちで用事をすまして、帰りのバスを待合所で待っていたら、どしゃ降りの中を、アメリカの空《から》のトラックが走って来て、そうしてどうやら故障を起したらしく、バスの待合所のちょうど前でとまり、運転台から子供のような若いアメリカ兵が二人飛び降り、雨に打たれながら修理にとりかかって、なかなか修理がすまぬ様子で、濡鼠《ぬれねずみ》の姿でいつまでも黙々と機械をいじくり、やがて、キントトさんたちのバスがやって来たが、キントトさんは待合所から走り出て、バスに乗りかけ、その時まるで夢中で、自分の風呂敷《ふろしき》包の中の梨《なし》を一つずつそのアメリカの少年たちに与え、サンキュウという声を背後に聞いてバスの奥に駆《か》け込んだとたんに発車。それだけの事であったが、道場へ帰り着き、次第に落ちついて来ると共に、何とも言えずおそろしく、心配で心配でたまらなくなり、ついに夜、蒲団《
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