、家へ帰っても、その家族の者たちに手柄話などする気もなく、かえってお父さんに叱られはせぬかと心配して、けれども、それでも走りたいのです。いのちがけで、やってみたいのです。誰にほめられなくてもいいんです。ただ、走ってみたいのです。無報酬の行為です。幼児の危い木登りには、まだ柿の実を取って食おうという慾がありましたが、このいのちがけのマラソンには、それさえありません。ほとんど虚無の情熱だと思いました。それが、その時の私の空虚な気分にぴったり合ってしまったのです。
 私は局員たちを相手にキャッチボールをはじめました。へとへとになるまで続けると、何か脱皮に似た爽《さわ》やかさが感ぜられ、これだと思ったとたんに、やはりあのトカトントンが聞えるのです。あのトカトントンの音は、虚無の情熱をさえ打ち倒します。
 もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」
 と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。
「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」
 案外の名答だと思いました。そうして、ふっと私は、闇屋《やみや》になろうかしらと思いました。しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞えて来ました、
 教えて下さい。この音は、なんでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。どうか、ご返事を下さい。
 なお最後にもう一言つけ加えさせていただくなら、私はこの手紙を半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞えて来ていたのです。こんな手紙を書く、つまらなさ。それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。そうして、あんまりつまらないから、やけになって、ウソばっかり書いたような気がします。花江さんなんて女もいないし、デモも見たのじゃないんです。その他の事も、たいがいウソのようです。
 しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。読みかえさず、このままお送り致します。敬具。

 この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。

 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智《えいち》よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂《たましい》をころし得ぬ者どもを懼《おそ》るな、身と霊魂《たましい》とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬《いけい》」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂《へきれき》を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈《はず》です。不尽《ふじん》。



底本:「ヴィヨンの妻」新潮文庫、新潮社
   1950(昭和25)年12月20日発行
   1985(昭和60)年10月30日63刷改版
   1996(平成8)年6月20日88版
初出:「群像」
   1947(昭和22)年1月号
入力:治
校正:割子田数哉
1999年1月23日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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