、その割烹店は、県知事はじめ地方名士をのみ顧客としている土地一流の店の由。なるほど玄関も、ものものしく、庭園には大きい滝があった。玄関からまっすぐに長い廊下が通じていて、廊下の板は、お寺の床板みたいに黒く冷え冷えと光って、その廊下の尽きるところ、トンネルの向う側のように青いスポット・ライトを受けて、ぱっと庭園のその大滝が望見される。葉桜のころで、光り輝く青葉の陰で、どうどうと落ちている滝は、十八歳の私には夢のようであった。ふと、われに帰り、
「ごはんを食べに来たのだ。」
 いままで拭き掃除していたものらしく、箒《ほうき》持って、手拭いを、あねさん被《かぶ》りにしたままで、
「どうぞ。」と、その女中は、なぜか笑いながら答え、私にスリッパをそろえてくれた。
 金屏風《きんびょうぶ》立てて在る奥の二階の部屋に案内された。割烹店は、お寺のように、シンとしていた。滝の音ばかり、いやに大きく響いていた。
「ごはんを食べるのだ。」私は座蒲団《ざぶとん》に大きく、あぐらかいて坐り、怒ったようにして、また言った。ばかにされまいとして、懸命であったのである。「さしみと、オムレツと、牛鍋とおしんこを下さい。」知っている料理を皆言ったつもりであった。
 女中は、四十ちかい叔母さんで、顔が黒く、痩せていて、それでも優しそうな感じのいい人であった。私は、その女中さんにお給仕されて、ひとりで、めしを大いに食べながら、
「浪、という芸者がいないかね。」少しも、恥じずに、そう言った。美しい勇気を持っていたのである。むしろ、得意でさえあった。「僕は、知っているんだ。」
 女中は、いないと答えた。私は箸《はし》を取り落すほど、がっかりした。
「そんなことは、ない。」ひどく不気嫌だった。
 女中は、うしろへ両手を廻して、ちょっと帯を直してから、答えた。浪という芸者が、いましたけれど、いつも男の言うこと聞きすぎて、田舎まわりの旅役者にだまされ、この土地に居られなくなり、いまはASという温泉場で、温泉芸者している筈です、という答えであった。
「そうか。浪は、昔から、そういう子だったんだ。」なぞと、知ったかぶりをして、けれども私は暗い気持であった。そのまま帰ったのであるが、なんのことはない、私はA市まで、滝を見に行って来たようなものであった。
 けれども私は、浪を忘れなかった。忘れるどころか、いよいよ好きになった、旅役者にだまされるとは、なんというロマンチック。偉いと思った。凡俗でないと思った。必ず、必ず、ASという、その温泉場へ行って、浪を、ほめてあげようと思った。
 それから三年経って、私は東京の大学へはいり、喫茶店や、バアの女とも識る機会を持ったが、やはり浪を忘れ得なかった。そのとしの暑中休暇に、故郷へ帰る途中、汽車がそのASという温泉場へも停車したので、私は、とっさの中に覚悟をきめ、飛鳥の如く身を躍《おど》らせて下車してしまった。
 その夜、私は浪と逢った。浪は、太って、ずんぐりして、ちっとも美しくなかった。私は、やたらに酒を呑んだ。酔って来たら、多少ロマンチックな気持も蘇って来て、
「あなたは十年まえに、馬に乗って、Kという村に来たこと、なかったかね?」
「あったわ。」女は、なんでも無さそうにして答えた。
 私は膝を大いにすすめて、そのとき、あなたの踊った藤娘を、僕は見ていた。十二のときだった。それから、あなたを忘れられない。苦心して、あなたの居所さがし廻って、私は、いま十年ぶりで、やっと、あなたと逢うことができたのだ。と言っているうちに、やはり胸が一ぱいになって来て、私は泣きたくなって来た。
「あなたは、それじゃ、」温泉芸者は、更に興を覚えぬ様子で、「Tさんのお坊ちゃんなの?」と、ぶっきらぼうな尋ねかたをした。
 私は、そうだと答えたかったのだけれど、そうすると、なんだかお金持の子供を鼻にかけるようで私のロマンチックな趣味に合わなかったから、いやちがう、僕はあの家の遠縁に当る苦学生であるが、そんなことは、どうでもいい、十年ぶりでやっと思いが叶《かな》って逢えたのだ。今夜は、この宿へ泊って行きなさい、ゆっくり話しましょう、と私ひとりは、何かと興奮しているのだが、女は一向に、このロマンチシズムを解しない。あたしは、よごれているから、と女は、泊ることを断った。私は、勘ちがいした。強い感動を受けたのである。思わず、さらに大いに膝をすすめ、
「何を言うのだ。僕だって昔の僕じゃない。全身、傷だらけだ。あなたも、苦労したろうね。お互いだ。僕だって、よごれているのだ。君は、君の暗い過去のことで負《ひ》けめを感ずることは、少しもないんだ。」涙声にさえなっていた。
 女は、やはり、その夜、泊らずに帰った。つまらない女であった。私は女の帰った真意を、解することが、できなかった。おの
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング