。かんにんしてお呉れ。あ! 佐竹の口真似をした。ちぇっ! あああ、舌打ちの音まで馬場に似て来たようだ。そのうちに、私は荒涼たる疑念にとらわれはじめたのである。私はいったい誰だろう、と考えて、慄然《りつぜん》とした。私は私の影を盗まれた。何が、フレキシビリティの極致だ! 私は、まっすぐに走りだした。歯医者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。走りながら私は自分が何やらぶつぶつ低く呟いているのに気づいた。――走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎。出鱈目な調子をつけて繰り返し繰り返し歌っていたのだ。あ、これが私の創作だ。私の創った唯一の詩だ。なんというだらしなさ! 頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信号。風。あっ!

   四

「佐竹。ゆうべ佐野次郎が電車にはね飛ばされて死んだのを知っているか」
「知っている。けさ、ラジオのニュウスで聞いた」
「あいつ、うまく災難にかかりやがった。僕なんか、首でも吊らなければおさまりがつきそうもないのに」
「そうして、君がいちばん長生きをするだろう。いや、僕の予言はあたるよ。君、――」
「なんだい」
「ここに二百円だけある。ペリカンの画が売れたのだ。佐野次郎氏と遊びたくてせっせとこれだけこしらえたのだが」
「僕におくれ」
「いいとも」
「菊ちゃん。佐野次郎は死んだよ。ああ、いなくなったのだ。どこを捜してもいないよ。泣くな」
「はい」
「百円あげよう。これで綺麗《きれい》な着物と帯とを買えば、きっと佐野次郎のことを忘れる。水は器にしたがうものだ。おい、おい、佐竹。今晩だけ、ふたりで仲よく遊ぼう。僕がいいところへ案内してやる。日本でいちばん好いところだ。――こうしてお互いに生きているというのは、なんだか、なつかしいことでもあるな」
「人は誰でもみんな死ぬさ」



底本:「走れメロス」新潮文庫、新潮社
   1967(昭和42)年7月10日発行
   1985(昭和60)年9月15日40刷改版
   1989(平成元)年6月10日50刷
初出:「文藝春秋」
   1935(昭和10)年10月
入力:野口英司
校正:八巻美恵
2004年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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