やつり人形の所作でも見ているような心地がした。私はいぶかしく思いながらその後姿をそれとなく見送り縁台に腰をおろすと、馬場はにやにやうす笑いして言いだした。
「信じ切る。そんな姿はやっぱり好いな。あいつがねえ」白馬驕不行の碾茶の茶碗は流石《さすが》にてれくさい故をもってか、とうのむかしに廃止されて、いまは普通のお客と同じに店の青磁の茶碗。番茶を一口すすって、「僕のこの不精髭を見て、幾日くらいたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらいでこんなになってしまうのだよ。ほら、じっとして見ていなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と真顔で教えたら、だまってしゃがんで僕の顎を皿のようなおおきい眼でじっと見つめるじゃないか。おどろいたね。君、無智ゆえに信じるのか、それとも利発ゆえに信じるのか。ひとつ、信じるという題目で小説でも書こうかなあ。AがBを信じている。そこへCやDやEやFやGやHやそのほかたくさんの人物がつぎつぎに出て来て、手を変え品を変え、さまざまにBを中傷する。――それから、――AはやっぱりBを信じている。疑わない。てんから疑わない。安心している。Aは女、Bは男、つまらない小説だね。ははん」へんにはしゃいでいた。私は、彼の言葉をそのままに聞いているだけで彼の胸のうちをべつだん何も忖度《そんたく》してはいないのだというところをすぐにも見せなければいけないと思ったから、
「その小説は面白そうですね。書いてみたら?」
 できるだけ余念なさそうな口調で言って、前方の西郷隆盛の銅像をぼんやり眺めた。馬場は助かったようであった。いつもの不機嫌そうな表情を、円滑に、取り戻すことができたのである。
「ところが、――僕には小説が書けないのだ。君は怪談を好むたちだね?」
「ええ、好きですよ。なによりも、怪談がいちばん僕の空想力を刺激するようです」
「こんな怪談はどうだ」馬場は下唇をちろと舐めた。「知性の極というものは、たしかにある。身の毛もよだつ無間《むけん》奈落《ならく》だ。こいつをちらとでも覗《のぞ》いたら最後、ひとは一こともものを言えなくなる。筆を執っても原稿用紙の隅に自分の似顔画を落書したりなどするだけで、一字も書けない。それでいて、そのひとは世にも恐ろしい或るひとつの小説をこっそり企てる。企てた、とたんに、世界じゅうの小説がにわかに退屈でしらじらしくなって来るのだ。それはほんとうに、おそろしい小説だ。たとえば、帽子をあみだにかぶっても気になるし、まぶかにかぶっても落ちつかないし、ひと思いに脱いでみてもいよいよ変だという場合、ひとはどこで位置の定着を得るかというような自意識過剰の統一の問題などに対しても、この小説は碁盤のうえに置かれた碁石のような涼しい解決を与えている。涼しい解決? そうじゃない。無風。カットグラス。白骨。そんな工合いの冴《さ》え冴《ざ》えした解決だ。いや、そうじゃない。どんな形容詞もない、ただの、『解決』だ。そんな小説はたしかにある。けれども人は、ひとたびこの小説を企てたその日から、みるみる痩せおとろえ、はては発狂するか自殺するか、もしくは唖者《おし》になってしまうのだ。君、ラディゲは自殺したんだってね。コクトオは気がちがいそうになって日がな一日オピアムばかりやってるそうだし、ヴァレリイは十年間、唖者になった。このたったひとつの小説をめぐって、日本なんかでも一時ずいぶん悲惨な犠牲者が出たものだ。現に、君、――」
「おい、おい」という嗄れた呼び声が馬場の物語の邪魔をした。ぎょっとして振りむくと、馬場の右脇にコバルト色の学生服を着た背のきわめてひくい若い男がひっそり立っていた。
「おそいぞ」馬場は怒っているような口調で言った。「おい、この帝大生が佐野次郎左衛門さ。こいつは佐竹六郎だ。れいの画かきさ」
 佐竹と私とは苦笑しながら軽く目礼を交した。佐竹の顔は肌理《きめ》も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであった。瞳の焦点がさだかでなく、硝子《ガラス》製の眼玉のようで、鼻は象牙《ぞうげ》細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺《いちご》のように赤かった。そんなに絢爛《けんらん》たる面貌にくらべて、四肢の貧しさは、これまた驚くべきほどであった。身長五尺に満たないくらい、痩せた小さい両の掌は蜥蜴《とかげ》のそれを思い出させた。佐竹は立ったまま、老人のように生気のない声でぼそぼそ私に話しかけたのである。
「あんたのことを馬場から聞きましたよ。ひどいめに遭ったものですねえ。なかなかやると思っていますよ」私はむっとして、佐竹のまぶしいほど白い顔をもいちど見直した。箱のように無表情であった。
 馬場は音たかく舌打ちして、「おい佐竹、からかうのはやめろ。ひ
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