「バカだわ、あなたは。まるでなってやしないじゃないの。」

      行  進 (三)

 田島は敵の意外の鋭鋒《えいほう》にたじろぎながらも、
「そうさ、全くなってやしないから、君にこうして頼むんだ。往生しているんだよ。」
「何もそんな、めんどうな事をしなくても、いやになったら、ふっとそれっきりあわなけれあいいじゃないの。」
「そんな乱暴な事は出来ない。相手の人たちだって、これから、結婚するかも知れないし、また、新しい愛人をつくるかも知れない。相手のひとたちの気持をちゃんときめさせるようにするのが、男の責任さ。」
「ぷ! とんだ責任だ。別れ話だの何だのと言って、またイチャつきたいのでしょう? ほんとに助平《すけべい》そうなツラをしている。」
「おいおい、あまり失敬な事を言ったら怒るぜ。失敬にも程度があるよ。食ってばかりいるじゃないか。」
「キントンが出来ないかしら。」
「まだ、何か食う気かい? 胃拡張とちがうか。病気だぜ、君は。いちど医者に見てもらったらどうだい。さっきから、ずいぶん食ったぜ。もういい加減によせ。」
「ケチねえ、あなたは。女は、たいてい、これくらい食うの普通だわよ。もうたくさん、なんて断っているお嬢さんや何か、あれは、ただ、色気があるから体裁をとりつくろっているだけなのよ。私なら、いくらでも、食べられるわよ。」
「いや、もういいだろう。ここの店は、あまり安くないんだよ。君は、いつも、こんなにたくさん食べるのかね。」
「じょうだんじゃない。ひとのごちそうになる時だけよ。」
「それじゃね、これから、いくらでも君に食べさせるから、ぼくの頼み事も聞いてくれ。」
「でも、私の仕事を休まなければならないんだから、損よ。」
「それは別に支払う。君のれいの商売で、儲《もう》けるぶんくらいは、その都度《つど》きちんと支払う。」
「ただ、あなたについて歩いていたら、いいの?」
「まあ、そうだ。ただし、条件が二つある。よその女のひとの前では一言も、ものを言ってくれるな。たのむぜ。笑ったり、うなずいたり、首を振ったり、まあ、せいぜいそれくらいのところにしていただく。もう一つは、ひとの前で、ものを食べない事。ぼくと二人きりになったら、そりゃ、いくら食べてもかまわないけど、ひとの前では、まずお茶一ぱいくらいのところにしてもらいたい。」
「その他、お金もくれるんでしょう? あなたは、ケチで、ごまかすから。」
「心配するな。ぼくだって、いま一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅さ。」
「フクスイの陣って、とこね。」
「フクスイ? バカ野郎、ハイスイ(背水)の陣だよ。」
「あら、そう?」
 けろりとしている。田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。しかし、美しい。りんとして、この世のものとも思えぬ気品がある。
 トンカツ。鶏のコロッケ。マグロの刺身《さしみ》。イカの刺身。支那《しな》そば。ウナギ。よせなべ。牛の串焼《くしやき》。にぎりずしの盛合せ。海老《えび》サラダ。イチゴミルク。
 その上、キントンを所望とは。まさか女は誰でも、こんなに食うまい。いや、それとも?

      行  進 (四)

 キヌ子のアパートは、世田谷方面にあって、朝はれいの、かつぎの商売に出るので、午後二時以後なら、たいていひまだという。田島は、そこへ、一週間にいちどくらい、みなの都合のいいような日に、電話をかけて連絡をして、そうしてどこかで落ち合せ、二人そろって別離の相手の女のところへ向って行進することをキヌ子と約す。
 そうして、数日後、二人の行進は、日本橋のあるデパート内の美容室に向って開始せられる事になる。
 おしゃれな田島は、一昨年の冬、ふらりとこの美容室に立ち寄って、パーマネントをしてもらった事がある。そこの「先生」は、青木さんといって三十歳前後の、いわゆる戦争未亡人である。ひっかけるなどというのではなく、むしろ女のほうから田島について来たような形であった。青木さんは、そのデパートの築地《つきじ》の寮から日本橋のお店にかよっているのであるが、収入は、女ひとりの生活にやっとというところ。そこで、田島はその生活費の補助をするという事になり、いまでは、築地の寮でも、田島と青木さんとの仲は公認せられている。
 けれども、田島は、青木さんの働いている日本橋のお店に顔を出す事はめったに無い。田島の如きあか抜けた好男子の出没は、やはり彼女の営業を妨げるに違いないと、田島自身が考えているのである。
 それが、いきなり、すごい美人を連れて、彼女のお店にあらわれる。
「こんちは。」というあいさつさえも、よそよそしく、「きょうは女房を連れて来ました。疎開先から、こんど呼び寄せたのです。」
 それだけで十分。青木さんも、目もと涼しく、肌《はだ》が白くやわらかで、愚かしいところの無いかなりの美人ではあったが、キヌ子と並べると、まるで銀の靴と兵隊靴くらいの差があるように思われた。
 二人の美人は、無言で挨拶《あいさつ》を交《かわ》した。青木さんは、既に卑屈な泣きべそみたいな顔になっている。もはや、勝敗の数は明かであった。
 前にも言ったように、田島は女に対して律儀《りちぎ》な一面も持っていて、いまだ女に、自分が独身だなどとウソをついた事が無い。田舎に妻子を疎開させてあるという事は、はじめから皆に打明けてある。それが、いよいよ夫の許《もと》に帰って来た。しかも、その奥さんたるや、若くて、高貴で、教養のゆたからしい絶世の美人。
 さすがの青木さんも、泣きべそ以外、てが無かった。
「女房の髪をね、一つ、いじってやって下さい。」と田島は調子に乗り、完全にとどめを刺そうとする。「銀座にも、どこにも、あなたほどの腕前のひとは無いってうわさですからね。」
 それは、しかし、あながちお世辞でも無かった。事実、すばらしく腕のいい美容師であった。
 キヌ子は鏡に向って腰をおろす。
 青木さんは、キヌ子に白い肩掛けを当て、キヌ子の髪をときはじめ、その眼には、涙が、いまにもあふれ出るほど一ぱい。
 キヌ子は平然。
 かえって、田島は席をはずした。

      行  進 (五)

 セットの終ったころ、田島は、そっとまた美容室にはいって来て、一すんくらいの厚さの紙幣のたばを、美容師の白い上衣《うわぎ》のポケットに滑りこませ、ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ。」
 とささやき、その声が自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。
 キヌ子は無言で立上る。青木さんも無言で、キヌ子のスカートなど直してやる。田島は、一足さきに外に飛び出す。
 ああ、別離は、くるしい。
 キヌ子は無表情で、あとからやって来て、
「そんなに、うまくも無いじゃないの。」
「何が?」
「パーマ。」
 バカ野郎! とキヌ子を怒鳴ってやりたくなったが、しかし、デパートの中なので、こらえた。青木という女は、他人の悪口など決して言わなかった。お金もほしがらなかったし、よく洗濯もしてくれた。
「これで、もう、おしまい?」
「そう。」
 田島は、ただもう、やたらにわびしい。
「あんな事で、もう、わかれてしまうなんて、あの子も、意久地《いくじ》が無いね。ちょっと、べっぴんさんじゃないか。あのくらいの器量なら、……」
「やめろ! あの子だなんて、失敬な呼び方は、よしてくれ。おとなしいひとなんだよ、あのひとは。君なんかとは、違うんだ。とにかく、黙っていてくれ。君のその鴉《からす》の声みたいなのを聞いていると、気が狂いそうになる。」
「おやおや、おそれいりまめ。」
 わあ! 何というゲスな駄じゃれ。全く、田島は気が狂いそう。
 田島は妙な虚栄心から、女と一緒に歩く時には、彼の財布《さいふ》を前|以《もっ》て女に手渡し、もっぱら女に支払わせて、彼自身はまるで勘定などに無関心のような、おうようの態度を装うのである。しかし、いままで、どの女も、彼に無断で勝手な買い物などはしなかった。
 けれども、おそれいりまめ女史は、平気でそれをやった。デパートには、いくらでも高価なものがある。堂々と、ためらわず、いわゆる高級品を選び出し、しかも、それは不思議なくらい優雅で、趣味のよい品物ばかりである。
「いい加減に、やめてくれねえかなあ。」
「ケチねえ。」
「これから、また何か、食うんだろう?」
「そうね、きょうは、我慢してあげるわ。」
「財布をかえしてくれ。これからは、五千円以上、使ってはならん。」
 いまは、虚栄もクソもあったものでない。
「そんなには、使わないわ。」
「いや、使った。あとでぼくが残金を調べてみれば、わかる。一万円以上は、たしかに使った。こないだの料理だって安くなかったんだぜ。」
「そんなら、よしたら、どう? 私だって何も、すき好んで、あなたについて歩いているんじゃないわよ。」
 脅迫にちかい。
 田島は、ため息をつくばかり。

      怪  力 (一)

 しかし、田島だって、もともとただものでは無いのである。闇商売《やみしょうばい》の手伝いをして、一挙に数十万は楽にもうけるという、いわば目から鼻に抜けるほどの才物であった。
 キヌ子にさんざんムダ使いされて、黙って海容《かいよう》の美徳を示しているなんて、とてもそんな事の出来る性格ではなかった。何か、それ相当のお返しをいただかなければ、どうしたって、気がすまない。
 あんちきしょう! 生意気だ。ものにしてやれ。
 別離の行進は、それから後の事だ。まず、あいつを完全に征服し、あいつを遠慮深くて従順で質素で小食の女に変化させ、しかるのちにまた行進を続行する。いまのままだと、とにかく金がかかって、行進の続行が不可能だ。
 勝負の秘訣《ひけつ》。敵をして近づかしむべからず、敵に近づくべし。
 彼は、電話の番号帳により、キヌ子のアパートの所番地を調べ、ウイスキイ一本とピイナツを二袋だけ買い求め、腹がへったらキヌ子に何かおごらせてやろうという下心、そうしてウイスキイをがぶがぶ飲んで、酔いつぶれた振りをして寝てしまえば、あとは、こっちのものだ。だいいち、ひどく安上りである。部屋代も要《い》らない。
 女に対して常に自信満々の田島ともあろう者が、こんな乱暴な恥知らずの、エゲツない攻略の仕方を考えつくとは、よっぽど、かれ、どうかしている。あまりに、キヌ子にむだ使いされたので、狂うような気持になっているのかも知れない。色慾のつつしむべきも、さる事ながら、人間あんまり金銭に意地汚くこだわり、モトを取る事ばかりあせっていても、これもまた、結果がどうもよくないようだ。
 田島は、キヌ子を憎むあまりに、ほとんど人間ばなれのしたケチな卑《いや》しい計画を立て、果して、死ぬほどの大難に逢うに到った。
 夕方、田島は、世田谷のキヌ子のアパートを捜し当てた。古い木造の陰気くさい二階建のアパートである。キヌ子の部屋は、階段をのぼってすぐ突当りにあった。
 ノックする。
「だれ?」
 中から、れいの鴉声《からすごえ》。
 ドアをあけて、田島はおどろき、立ちすくむ。
 乱雑。悪臭。
 ああ、荒涼《こうりょう》。四畳半。その畳の表は真黒く光り、波の如く高低があり、縁《へり》なんてその痕跡《こんせき》をさえとどめていない。部屋一ぱいに、れいのかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、鳥かごのようなものやら、紙くずやら、ほとんど足の踏み場も無いくらいに、ぬらついて散らばっている。
「なんだ、あなたか。なぜ、来たの?」
 そのまた、キヌ子の服装たるや、数年前に見た時の、あの乞食姿、ドロドロによごれたモンペをはき、まったく、男か女か、わからないような感じ。
 部屋の壁には、無尽会社の宣伝ポスター、たった一枚、他にはどこを見ても装飾らしいものがない。カーテンさえ無い。これが、二十五、六の娘の部屋か。小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。

      怪  力 (二)

「あそびに来たのだけどね、」と田島は、む
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