べは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
 中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。
「誰もいないの?」
 夫は、私のほうを振り向いて見て、
「うん。おやじはまだ仕入れから帰らないし、ばあさんは、ちょっといままでお勝手のほうにいたようだったけど、いませんか?」
「ゆうべは、おいでにならなかったの?」
「来ました。椿屋のさっちゃんの顔を見ないとこのごろ眠れなくなってね、十時すぎにここを覗いてみたら、いましがた帰りましたというのでね」
「それで?」
「泊っちゃいましたよ、ここへ。雨はざんざ降っているし」
「あたしも、こんどから、このお店にずっと泊めてもらう事にしようかしら」
「いいでしょう、それも」
「そうするわ。あの家をいつまでも借りてるのは、意味ないもの」
 夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん
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