ただ、夫の烈《はげ》しい呼吸ばかり聞えていましたが、
「ごめん下さい」
 と、女のほそい声が玄関で致します。私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。
「ごめん下さい。大谷《おおたに》さん」
 こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、
「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」
 と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。
 夫は、その時やっと玄関に出た様子で、
「なんだい」
 と、ひどくおどおどしているような、まの抜けた返辞をいたしました。
「なんだいではありませんよ」と女は、声をひそめて言い、「こんな、ちゃんとしたお家もあるくせに、どろぼうを働くなんて、どうした事です。ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」
「何を言うんだ。失敬な事を言うな。ここは、お前たちの来るところでは無い。帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」
 その時、もうひとりの男の声が出ました。
「先生、いい度胸だね。お前たちの来るところではない、とは出かした。呆《あき》れてものが言えねえや。他の事とは違う。よその
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