て、お金はそのマダムがたてかえて、そうして夫に案内させ、中野のお店に来てくれたのだそうで、中野のお店のご亭主は私に向って、
「たいがい、そんなところだろうとは思っていましたが、しかし、奥さん、あなたはよくその方角にお気が附きましたね。大谷さんのお友だちにでも頼んだのですか」
とやはり私が、はじめからこうしてかえって来るのを見越して、このお店に先廻りして待っていたもののように考えているらしい口振りでしたから、私は笑って、
「ええ、そりゃもう」
とだけ、答えて置きましたのです。
その翌る日からの私の生活は、今までとはまるで違って、浮々した楽しいものになりました。さっそく電髪屋に行って、髪の手入れも致しましたし、お化粧品も取りそろえまして、着物を縫い直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに拭《ぬぐ》い去られた感じでした。
朝起きて坊やと二人で御飯をたべ、それから、お弁当をつくって坊やを脊負い、中野にご出勤ということになり、大みそか、お正月、お店のかきいれどきなので、椿屋《つばきや》の、さっちゃん、というのがお店での私の名前なのでございますが、そのさっちゃんは毎日、眼のまわるくらいの大忙しで、二日に一度くらいは夫も飲みにやって参りまして、お勘定は私に払わせて、またふっといなくなり、夜おそく私のお店を覗《のぞ》いて、
「帰りませんか」
とそっと言い、私も首肯いて帰り支度をはじめ、一緒にたのしく家路をたどる事も、しばしばございました。
「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」
「女には、幸福も不幸も無いものです」
「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
「わからないわ、私には。でも、いつまでも私、こんな生活をつづけて行きとうございますわ。椿屋のおじさんも、おばさんも、とてもいいお方ですもの」
「馬鹿なんですよ、あのひとたちは。田舎者ですよ。あれでなかなか慾張りでね。僕に飲ませて、おしまいには、もうけようと思っているのです」
「そりゃ商売ですもの、当り前だわ。だけど、それだけでも無いんじゃない? あなたは、あのおかみさんを、かすめたでしょう」
「昔ね。おやじは、どう
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