ただ、夫の烈《はげ》しい呼吸ばかり聞えていましたが、
「ごめん下さい」
 と、女のほそい声が玄関で致します。私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。
「ごめん下さい。大谷《おおたに》さん」
 こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、
「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」
 と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。
 夫は、その時やっと玄関に出た様子で、
「なんだい」
 と、ひどくおどおどしているような、まの抜けた返辞をいたしました。
「なんだいではありませんよ」と女は、声をひそめて言い、「こんな、ちゃんとしたお家もあるくせに、どろぼうを働くなんて、どうした事です。ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」
「何を言うんだ。失敬な事を言うな。ここは、お前たちの来るところでは無い。帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」
 その時、もうひとりの男の声が出ました。
「先生、いい度胸だね。お前たちの来るところではない、とは出かした。呆《あき》れてものが言えねえや。他の事とは違う。よその家の金を、あんた、冗談にも程度がありますよ。いままでだって、私たち夫婦は、あんたのために、どれだけ苦労をさせられて来たか、わからねえのだ。それなのに、こんな、今夜のような情ねえ事をし出かしてくれる。先生、私は見そこないましたよ」
「ゆすりだ」と夫は、威たけ高に言うのですが、その声は震えていました。「恐喝だ。帰れ! 文句があるなら、あした聞く」
「たいへんな事を言いやがるなあ、先生、すっかりもう一人前の悪党だ。それではもう警察へお願いするより手がねえぜ」
 その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどの凄《すご》い憎悪がこもっていました。
「勝手にしろ!」と叫ぶ夫の声は既に上ずって、空虚な感じのものでした。
 私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、
「いらっしゃいまし」
 と挨拶しました。
「や、これは奥さんですか」
 膝《ひざ》きりの短い外套《がいとう》を着た五十すぎくらいの丸顔の男のひとが、少しも笑わずに私に向ってちょっと首肯《うなず》くように会釈しました。
 女のほうは四十前後の痩せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。
「こんな夜中にあがりまして」
 と
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