ちの必死の反対があったからでもあった。それでも三郎は著述の決意だけはまげなかった。そのころ江戸で流行の洒落本《しゃれぼん》を出版することにした。ほほ、うやまってもおす、というような書きだしで能《あた》うかぎりの悪ふざけとごまかしを書くことであって、三郎の性格に全くぴたりと合っていたのである。彼が二十二歳のとき酔い泥屋滅茶滅茶先生という筆名で出版した二三の洒落本は思いのほかに売れた。或る日、三郎は父の蔵書のなかに彼の洒落本中の傑作「人間万事嘘は誠」一巻がまじっているのを見て、何気なさそうに黄村に尋ねた。滅茶滅茶先生の本はよい本ですか。黄村はにがり切って答えた。よくない。三郎は笑いながら教えた。あれは私の匿名《とくめい》ですよ。黄村は狼狽《ろうばい》を見せまいとして高いせきばらいを二つ三つして、それからあたりをはばかるような低い声で問うた。なんぼもうかったかの。
 傑作「人間万事嘘は誠」のあらましの内容は、嫌厭《けんえん》先生という年わかい世のすねものが面白おかしく世の中を渡ったことの次第を叙したものであって、たとえば嫌厭先生が花柳《かりゅう》の巷《ちまた》に遊ぶにしても或いは役者といつわり或いはお大尽を気取り或いはお忍びの高貴のひとのふりをする。そのいかさまごとがあまりにも工夫に富みほとんど真に近く芸者末社もそれを疑わず、はては彼自身も疑わず、それは決して夢ではなく現在たしかに、一夜にして百万長者になりまた一朝めざむれば世にかくれなき名優となり面白おかしくその生涯を終るのである。死んだとたんにむかしの無一文の嫌厭先生にかえるというようなことが書かれていた。これは謂《い》わば三郎の私小説であった。二十二歳をむかえたときの三郎の嘘はすでに神に通じ、おのれがこうといつわるときにはすべて真実の黄金に化していた。黄村のまえではあくまで内気な孝行者に、塾に通う書生のまえでは恐ろしい訳知りに、花柳の巷では即ち団十郎、なにがしのお殿様、なんとか組の親分、そうしてその辺に些少《さしょう》の不自然も嘘もなかった。
 そのあくるとしに父の黄村が死んだ。黄村の遺書にはこういう意味のことがらが書かれていた。わしは嘘つきだ。偽善者だ。支那の宗教から心が離れれば離れるほど、それに心服した。それでも生きて居れたのは、母親のないわが子への愛のためであろう。わしは失敗したが、この子を成功させたかったが、この子も失敗しそうである。わしはこの子にわしが六十年間かかってためた粒々の小銭、五百文を全部のこらず与えるものである。三郎はその遺書を読んでしまってから顔を蒼《あお》くして薄笑いを浮べ、二つに引き裂いた。それをまた四つに引き裂いた。さらに八つに引き裂いた。空腹を防ぐために子への折檻《せっかん》をひかえた黄村、子の名声よりも印税が気がかりでならぬ黄村、近所からは土台下に黄金の一ぱいつまった甕《かめ》をかくしていると囁《ささや》かれた黄村が、五百文の遺産をのこして大往生をした。嘘の末路だ。三郎は嘘の最後っ屁《ぺ》の我慢できぬ悪臭をかいだような気がした。
 三郎は父の葬儀を近くの日蓮宗のお寺でいとなんだ。ちょっと聞くと野蛮なリズムのように感ぜられる和尚のめった打ちに打ち鳴らす太鼓の音も、耳傾けてしばらく聞いていると、そのリズムの中にどうしようもない憤怒と焦慮とそれを茶化そうというやけくそなお道化とを聞きとることができたのである。紋服を着て[#「着て」は底本では「来て」]珠数《じゅず》を持ち十人あまりの塾生のまんなかに背を丸くして坐って、三尺ほど前方の畳のへりを見つめながら三郎は考える。嘘は犯罪から発散する音無しの屁だ。自分の嘘も、幼いころの人殺しから出発した。父の嘘も、おのれの信じきれない宗教をひとに信じさせた大犯罪から絞り出された。重苦しくてならぬ現実を少しでも涼しくしようとして嘘をつくのだけれども、嘘は酒とおなじようにだんだんと適量がふえて来る。次第次第に濃い嘘を吐いていって、切磋琢磨《せっさたくま》され、ようやく真実の光を放つ。これは私ひとりの場合に限ったことではないようだ。人間万事嘘は誠。ふとその言葉がいまはじめて皮膚にべっとりくっついて思い出され、苦笑した。ああ、これは滑稽の頂点である。黄村の骨をていねいに埋めてやってから三郎はひとつ今日より嘘のない生活をしてやろうと思いたった。みんな秘密な犯罪を持っているのだ。びくつくことはない。ひけめを感ずることはない。
 嘘のない生活。その言葉からしてすでに嘘であった。美《よ》きものを美《よ》しと言い、悪《あ》しきものを悪《あ》しという。それも嘘であった。だいいち美きものを美しと言いだす心に嘘があろう。あれも汚い、これも汚い、と三郎は毎夜ねむられぬ苦しみをした。三郎はやがてひとつの態度を見つけた。無意志無感動の痴呆《ちほう
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