た。底ふかくもぐってじっとしていることもあった。喧嘩さいちゅうに誤って足をすべらし小川へ転落した場合のことを考慮したのであった。小川がまちじゅうを流れているのだから、あるいはそんな場合もあるであろう。さらし木綿の腹帯を更にぎゅっと強く巻きしめた。酒を多く腹へいれさせまいという用心からであった。酔いどれたならば足がふらつき思わぬ不覚をとることもあろう。三年経った。大社のお祭りが三度来て、三度すぎた。修行がおわった。次郎兵衛の風貌はいよいよどっしりとして鈍重になった。首を左か右へねじむけてしまうのにさえ一分間かかった。
 肉親は血のつながりのおかげで敏感である。父親の逸平は、次郎兵衛の修行を見抜いた。何を修行したかは知らなかったけれど、何かしら大物になったらしいということにだけは感づいた。逸平はまえからのたくらみを実行した。次郎兵衛に火消し頭の名誉職を受けつがせたのである。次郎兵衛はそのなんだか訳のわからぬ重々しげなものごしによって多くの火消したちの信頼を得た。かしら、かしらとうやまわれるばかりで喧嘩の機会はとんとなかった。ひょっとしたらもうこれは生涯、喧嘩をせずにこのまま死んで行くのかも知れないと若いかしらは味気ない思いをしていた。ねりにねりあげた両腕は夜ごとにむずかゆくなり、わびしい気持ちでぽりぽりひっ掻《か》いた。力のやり場に困って身もだえの果、とうとうやけくそな悪戯心《いたずらごころ》を起し背中いっぱいに刺青《いれずみ》をした。直径五寸ほどの真紅の薔薇《ばら》の花を、鯖《さば》に似た細長い五匹の魚が尖《とが》ったくちばしで四方からつついている模様であった。背中から胸にかけて青い小波《さざなみ》がいちめんにうごいていた。この刺青のために次郎兵衛はいよいよ東海道にかくれなき男となり、火消したちは勿論、宿場のならずものにさえうやまわれ、もうはや喧嘩の望みは絶えてしまった。次郎兵衛は、これはやりきれないと思った。
 けれども機会は思いがけなくやって来た。そのころ三島の宿に、鹿間屋と肩を並べてともにともに酒つくりを競っていた陣州屋丈六という金持ちがいた。ここの酒はいくぶん舌ったるく、色あいが濃厚であった。丈六もまた酒によく似て、四人の妾《めかけ》を持っているのにそれでも不足で五人目の妾を持とうとして様様の工夫をしていた。鷹《たか》の白羽の矢が次郎兵衛の家の屋根を素通りしてそのおむかいの習字のお師匠の詫住《わびずま》いしている家の屋根のぺんぺん草をかきわけてぐさとつきささったのである。お師匠はかるがるとは返事をしなかった。二度、切腹をしかけては家人に見つけられて失敗したほどであった。次郎兵衛はその噂を聞いて腕の鳴るのを覚えた。機会を狙ったのである。
 三月《みつき》目に機会がやって来た。十二月のはじめ、三島に珍らしい大雪が降った。日の暮れかたからちらちらしはじめ間もなくおおきい牡丹雪《ぼたんゆき》にかわり三寸くらい積ったころ、宿場の六個の半鐘《はんしょう》が一時に鳴った。火事である。次郎兵衛はゆったりゆったり家を出た。陣州屋の隣りの畳屋が気の毒にも燃えあがっていた。数千の火の玉小僧が列をなして畳屋の屋根のうえで舞い狂い、火の粉が松の花粉のように噴出してはひろがりひろがっては四方の空に遠く飛散した。ときたま黒煙が海坊主のようにのっそりあらわれ屋根全体をおおいかくした。降りしきる牡丹雪は焔《ほのお》にいろどられ、いっそう重たげにもったいなげに見えた。火消したちは、陣州屋と議論をはじめていた。陣州屋は自分の家へ水をいれるのはまっぴらであると言い張り、はやく隣りの畳屋の棟をたたき落して火をしずめたらよいと命令した。火消したちはそれは火消しの法にそむくと言って反駁《はんばく》したのである。そこへ次郎兵衛があらわれた。陣州屋さん。次郎兵衛はできるだけ低い声で、しかもほとんど微笑むようにして言いだした。おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。陣州屋はだしぬけに言葉をはさんだ。これは鹿間屋の若旦那、へっへ、冗談です、まったくの酔興《すいきょう》です、ささ、ぞんぶんに水をおいれ下さい。喧嘩にはならなかった。次郎兵衛は仕方なく火事を眺めた。喧嘩にはならなかったけれどこのことで次郎兵衛はまたまた男をあげてしまった。火事のあかりにてらされながら陣州屋をたしなめていたときの次郎兵衛のまっかな両頬には十|片《ひら》あまりの牡丹雪が消えもせずにへばりついていてその有様は神様のように恐ろしかったというのは、その後ながいあいだの火消したちの語り草であった。
 その翌《あく》る年の二月のよい日に、次郎兵衛は宿場のはずれに新居をかまえた。六畳と四畳半と三畳と三間あるほかに八畳の裏二階がありそこから富士がまっすぐに眺められた。三月の更によい日に習字のお師匠の娘が花
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