ては不能者なのである。しかし、恋愛に阿呆《あほう》感は禁物である。私は、科学者の如く澄まして、
「百メートルはあるか。」と言った。
「さあ。」
「メートルならば、実感があるだろう。百メートルは、半丁だ。」と教えて、何だか不安で、ひそかに暗算してみたら、百メートルは約一丁であった。しかし、私は訂正しなかった。恋愛に滑稽《こっけい》感は禁物である。
「でも、もうすぐ、そこですわ。」
バラックの、ひどいアパートであった。薄暗い廊下をとおり、五つか六つ目の左側の部屋のドアに、陣場という貴族の苗字が記《しる》されてある。
「陣場さん!」と私は大声で、部屋の中に呼びかけた。
はあい、とたしかに答えが聞えた。つづいて、ドアのすりガラスに、何か影が動いた。
「やあ、いる、いる。」と私は言った。
娘は棒立ちになり、顔に血の気を失い、下唇を醜くゆがめたと思うと、いきなり泣き出した。
母は広島の空襲で死んだというのである。死ぬる間際《まぎわ》のうわごとの中に、笠井さんの名も出たという。
娘はひとり東京へ帰り、母方の親戚《しんせき》の進歩党代議士、そのひとの法律事務所に勤めているのだという。
母が
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