たう。こがれる。まよう。へんになる。之等《これら》は皆、恋愛の感情ではないか。これらの感情と全く違って、異性間に於いて「愛する」というまた特別の感情があるのであろうか。よくキザな女が「恋愛抜きの愛情で行きましょうよ。あなたは、あたしのお兄さまになってね」などと言う事があるけれど、あれがつまり、それであろうか。しかし、私の経験に依《よ》れば、女があんな事を言う時には、たいてい男がふられているのだと解して間違い無いようである。「愛する」もクソもありやしない。お兄さまだなんてばからしい。誰がお前のお兄さまなんかになってやるものか。話がちがうよ。
キリストの愛、などと言い出すのは大袈裟《おおげさ》だが、あのひとの教える「隣人愛」ならばわかるのだが、恋愛でなく「異性を愛する」というのは、私にはどうも偽善のような気がしてならない。
つぎにまた、あいまいな点は、「一体になろうとする特殊な性的愛」のその「性的愛」という言葉である。
性が主なのか、愛が主なのか、卵が親か、鶏が親か、いつまでも循環するあいまい極《きわ》まる概念である。性的愛、なんて言葉はこれは日本語ではないのではなかろうか。何か上品
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