》にある、あの、「誰でもよい」と乳母《うば》に打ち明ける恋いわずらいの令嬢も、この数個のほうの部類にいれて差《さ》し支《つか》えなかろう。
 太宰もイヤにげびて来たな、と高尚な読者は怒ったかも知れないが、私だってこんな事を平気で書いているのではない。甚《はなは》だ不愉快な気持で、それでも我慢してこうして書いているのである。
 だから私は、はじめから言ってある。
 恋愛とは何か。
 曰《いわ》く、「それは非常に恥かしいものである」と。
 その実態が、かくの如きものである以上、とてもそれは恥かしくて、口に出しては言えない言葉であるべき筈なのに、「恋愛」と臆《おく》するところ無くはっきりと発音して、きょとんとしている文化女史がその辺にもいたようであった。ましてや「恋愛至上主義」など、まあなんという破天荒《はてんこう》、なんというグロテスク。「恋愛は神聖なり」なんて飛んでも無い事を言い出して居直ろうとして、まあ、なんという図々《ずうずう》しさ。「神聖」だなんて、もったいない。口が腐りますよ。まあ、どこを押せばそんな音《ね》が出るのでしょう。色気違いじゃないかしら。とても、とても、あんな事が、神聖なものですか。
 さて、それでは、その恋愛、すなわち色慾の Warming−up は、単にチャンスに依《よ》ってのみ開始せられるものであろうか。チャンスという異国語はこの場合、日本に於いて俗に言われる「ひょんな事」「ふとした事」「妙な縁」「きっかけ」「もののはずみ」などという意味に解してもよろしいかと思われるが、私の今日までの三十余年間の好色生活を回顧しても、そのような事から所謂《いわゆる》「恋愛」が開始せられた事は一度も無かった。「もののはずみ」で、つい、女性の繊手《せんしゅ》を握ってしまった事も無かったし、いわんや、「ふとした事」から異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶、などという壮烈な経験は、私には未《いま》だかつて無いのである。
 私は決して嘘《うそ》をついているのではない。まあ、おしまいまで読み給え。
「もののはずみ」とか「ひょんな事」とかいうのは、非常にいやらしいものである。それは皆、拙劣きわまる演技でしかない。稲妻《いなずま》。あー こわー なんて男にしがみつく、そのわざとらしさ、いやらしさ。よせやい、と言いたい。こわかったら、ひとりで俯伏《うつぶ》したらいいじゃ
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