で、恋愛をさえ幾度となく自分で断念したこともあります。
 現に私の兄がいま青森県の民選知事をしておりますが、そう云うことを女にひと言でも云えば、それを種に女を口説《くど》くと思われはせぬかというので、却《かえ》っていつも芝居をしているように、自分をくだらなく見せるというような、殆ど愚かといってもいいくらいの努力をして生きて参りました。これは自分でももて余していて、どうにも解決のしようが未だに発見出来ません。

     文壇生活?……

 私がまだ東大の仏文科でまごまごしていた二十五歳の時、改造社の「文芸」という雑誌から何か短篇を書けといわれて、その時、あり合せの「逆行」という短篇を送った。それが二、三ヶ月後くらいに新聞の広告に大きく名前が他の諸先輩と並んで出て、それが後日第一回芥川賞の時に候補に上げられました。
 その「逆行」と殆ど前後して同人雑誌「日本|浪曼派《ろうまんは》」に「道化の華」が発表されました。それが佐藤春夫先生の推奨にあずかり、その後、文学雑誌に次々と作品を発表することができました。
 それで自分も文壇生活というか、小説を書いて或いは生活が出来るのではないかしらとかすかな希望をもつようになりました。それは大体年代からいうと昭和十年頃です。
 省みますと、自分でははっきりと斯々《かくかく》の動機で文学を志したということは、判らないことで、殆ど無意識といってもいい位に、私はいつの間にやら文学の野原を歩いていたような気がするのです。気がついたらそれこそ往くも千里、帰るも千里というような、のっぴきならない文学の野原のまん中に立っていたのに気がついて、たいへん驚いたというようなところが真に近いかと思います。

     先輩・好きな人達

 私がおつき合いをお願いしている先輩は井伏|鱒二《ますじ》氏一人といっていい位です。あと評論家では河上徹太郎、亀井勝一郎、この人達も「文学界」の関係から飲み友達になりました。もっと年とった方の先輩では、これは交友というのは失礼かもしれないけれど、お宅に上らせて頂いた方《かた》は佐藤先生と豊島与志雄先生です。そうして井伏さんにはとうとう現在の家内を媒酌《ばいしゃく》して頂いた程、親しく願っております。
 井伏さんといえば、初期の「夜ふけと梅の花」という本の諸作品は、殆ど宝石を並べたような印象を受けました。また嘉村礒多《かむら
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