持っているようだ。長兄は、謂わば立派な人格者なのであって、胸には高潔の理想の火が燃えて、愛情も深く、そこに何の駈引《かけひき》も打算も無いのであるから、どうも物語を虚構する事に於いては不得手なのである。遠慮無く申せば、物語は、下手くそである。何を書いても、すぐ論文のようになってしまう。いまも、やはり、どうも、演説口調のようである。ただ、まじめ一方である。その顔は輝くばかりに美しかった、と書いて、おごそかに眼をつぶり暫《しばら》く考えてから、こんどは、ゆっくり次のように書きつづけた。物語にも、なんにもなっていないが、長兄の誠実と愛情だけは、さすがに行間に滲《にじ》み出ている。
 ――その顔は、ラプンツェルの顔ではなかった。いや、やっぱりラプンツェルの顔である。しかしながら、病気以前のラプンツェルの、うぶ毛の多い、野薔薇《のばら》のような可憐な顔ではなく、(女性の顔を、とやかく批評するのは失礼な事であるが)いま生き返って、幽かに笑っている顔は、之は草花にたとえるならば、(万物の霊長たる人間の面貌を、植物にたとえるのは無謀の事であるが)まず桔梗《ききょう》であろうか。月見草であろうか。とにかく秋の草花である。魔法の祭壇から降りて、淋しく笑った。品位。以前に無かった、しとやかな品位が、その身にそなわって来ているのだ。王子は、その気高い女王さまに思わず軽くお辞儀をした。
「不思議な事もあるものだ。」と魔法使いの老婆は、首をかしげて呟《つぶや》いた。「こんな筈ではなかった。蝦蟇《がま》のような顔の娘が、釜の中から這って出て来るものとばかり思っていたが、どうもこれは、わしの魔法の力より、もっと強い力のものが、じゃまをしたのに違いない。わしは負けた。もう、魔法も、いやになりました。森へ帰って、あたりまえの、つまらぬ婆として余生を送ろう。世の中には、わしにわからぬ事もあるわい。」そう言って、魔法の祭壇をどんと蹴飛ばし、煖炉《だんろ》にくべて燃やしてしまった。祭壇の諸道具は、それから七日七晩、蒼《あお》い火を挙げて燃えつづけていたという。老婆は、森へ帰り、ふつうの、おとなしい婆さんとして静かに余生を送ったのである。
 これを要するに、王子の愛の力が、老婆の魔法の力に打ち勝ったという事になるのであるが、小生の観察に依れば、二人の真の結婚生活は、いよいよこれから、はじまるもののようである。王子の、今日までの愛情は、極言すれば、愛撫という言葉と置きかえてもいいくらいのものであった。青春の頃は、それもまた、やむを得まい。しかしながら、必ずそれは行き詰まる。必ず危機が到来する。王子と、ラプンツェルの場合も、たしかに、その懐姙、出産を要因として、二人の間の愛情が齟齬《そご》を来《きた》した。たしかに、それは神の試みであったのである。けれども王子の、無邪気な懸命の祈りは、神のあわれみ給うところとなり、ラプンツェルは、肉感を洗い去った気高い精神の女性として蘇生した。王子は、それに対して、思わずお辞儀をしたくらいである。ここだ。ここに、新しい第二の結婚生活がはじまる。曰《いわ》く、相互の尊敬である。相互の尊敬なくして、真の結婚は成立しない。ラプンツェルは、いまは、野蛮の娘ではない。ひとの玩弄物《がんろうぶつ》ではないのである。深い悲しみと、あきらめと、思いやりのこもった微笑を口元に浮べて、生れながらの女王のように落ちついている。王子は、ラプンツェルと、そっと微笑を交しただけで、心も、なごやかになって楽しいのである。夫と妻は、その生涯に於いて、幾度も結婚をし直さなければならぬ。お互いが、相手の真価を発見して行くためにも、次々の危機に打ち勝って、別離せずに結婚をし直し、進まなければならぬ。王子と、ラプンツェルも、此の五年後あるいは十年後に、またもや結婚をし直す事があるかも知れぬが、互いの一筋の信頼と尊敬を、もはや失う事もあるまいから、まずまず万々歳であろうと小生には思われるのである。」
 長兄は、あまり真剣に力をいれすぎて書いたので、自分でも何を言っているのやら、わけがわからなくなって狼狽《ろうばい》した。物語にも何も、なっていない。ぶちこわしになったような気もする。長兄は、太い万年筆を握ったまま、実にむずかしい顔をした。思い余って立ち上り、本棚の本を、あれこれと取り出し、覗いてみた。いいものを見つけた。パウロの書翰集《しょかんしゅう》。テモテ前書の第二章。このラプンツェル物語の結びの言葉として、おあつらいむきであると長兄は、ひそかに首肯《うなず》き、大いにもったい振って書き写した。
 ――この故に、われは望む。男は怒《いか》らず争わず、いずれの処にても潔《きよ》き手をあげて祈らん事を。また女は、羞恥を知り、慎みて宜しきに合《かな》う衣もて己を飾り、編みたる頭髪《かみのけ》と金と真珠と価《あたい》たかき衣もては飾らず、善き業《わざ》をもて飾とせん事を。これ神を敬《うやま》わんと公言する女に適《かな》える事なり。女は凡《すべ》てのこと従順にして静かに道を学ぶべし。われ、女の、教うる事と、男の上に権を執る事を許さず、ただ静かにすべし。それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。アダムは惑わされず、女は惑わされて罪に陥りたるなり。されど女もし慎みて信仰と愛と潔きとに居らば、子を生む事によりて救わるべし。――
 まずこれでよし、と長兄は、思わず莞爾《かんじ》と笑った。弟妹たちへの、よき戒しめにもなるであろう。このパウロの句でも無かった事には、僕の論旨は、しどろもどろで甘ったるく、甚《はなは》だ月並みで、弟妹たちの嘲笑の種にせられたかもわからない。危いところであった。パウロに感謝だ、と長兄は九死に一生を得た思いのようであった。長兄は、いつも弟妹たちへの教訓という事を忘れない。それゆえ、まじめになってしまって、物語も軽くはずまず、必ずお説教の口調になってしまう。長兄には、やはり長兄としての苦しさがあるものだ。いつも、真面目でいなければならぬ。弟妹たちと、ふざけ合う事は、長兄としての責任感がゆるさないのである。
 さて、これで物語は、どうやら五日目に、長兄の道徳講義という何だか蛇足《だそく》に近いものに依って一応は完結した様子である。きょうは、正月の五日である。次男の風邪も、なおっていた。昼すこし過ぎに、長兄は書斎から意気揚々と出て来て、
「さあ、完成したぞ。完成したぞ。」と弟妹たちに報告して歩いて、皆を客間に集合させた。祖父も、にやにや笑いながら、やって来た。やがて祖母も、末弟に無理矢理、ひっぱられてやって来た。母と、さとは客間に火鉢を用意するやら、お茶、お菓子、昼食がわりのサンドイッチ、祖父のウイスキイなど運ぶのにいそがしい。まず末弟から、読みはじめた。祖母は、膝をすすめ、文章の切れめ切れめに、なるほどなるほどという賛成の言葉をさしはさむので、末弟は読みながら恥ずかしかった。祖父は、どさくさまぎれに、ウイスキイの瓶《びん》を自分の傍に引き寄せて、栓を抜き、勝手にひとりで飲みはじめている。長兄が小声で、おじいさん、量が過ぎやしませんかと注意を与えたら、祖父は、もっと小さい声で、ロオマンスは酔うて聞くのが通《つう》なものじゃ、と答えた。末弟、長女、次男、次女、おのおの工夫に富んだ朗読法でもって読み終り、最後に長兄は、憂国の熱弁のような悲痛な口調で読み上げた。次男は、噴き出したいのを怺《こら》えていたが、ついに怺えかねて、廊下へ逃げ出した。次女は、長男の文才を軽蔑し果てたというような、おどけた表情をして、わざと拍手をしたりした。生意気なやつである。
 全部、読み終った頃には、祖父は既に程度を越えて酔っていた。うまい、皆うまい、なかでもルミ(次女の名)がうまかった、とやはり次女を贔屓《ひいき》した。けれども、と酔眼を見ひらき意外の抗議を提出した。
「王子とラプンツェルの事ばかり書いて、王さまと、王妃さまの事には、誰もちっとも触れなかったのは残念じゃ。初枝が、ちょっと書いていたようだが、あれだけでは足りん。そもそも、王子がラプンツェルと結婚出来たのも、またそれから末永く幸福に暮せたのも、みなこれひとえに、王さまと王妃さまの御慈愛のたまものじゃ。王さまと王妃さまに、もし御理解が無かったら、王子とラプンツェルとが、どんなに深く愛し合っていたとしても滅茶苦茶じゃ。だからして、王さまと王妃さまの深き御寛容を無視しては、この物語は成立せぬ。お前たちは、まだ若い。そういう蔭の御理解に気が附かず、ただもう王子さまやラプンツェルの恋慕の事ばかり問題にしている。まだ、いたらんようじゃ。わしは、ヴィクトル・ユーゴーの作品を、せがれにすすめられて愛読したものだが、あれはさすがに隅々まで眼がとどいている。かの、ヴィクトル・ユーゴーは、――」と一段と声を張り挙げた時、祖母に叱られた。子供たちが、せっかく楽しんでいるのに、あなたは何を言うのですか、と叱られ、おまけにウイスキイの瓶とグラスを取り上げられた。祖父の批評は、割合い正確なところもあったようだが、口調が甚だ、だらしなかったので、誰にも支持されず黙殺されてしまった。祖父は急にしょげた。その様子を見かねて母は、祖父に、れいの勲章《くんしょう》を、そっと手渡した。去年の大晦日《おおみそか》に、母は祖父の秘密のわずかな借銭を、こっそり支払ってあげた功労に依って、その銀貨の勲章を授与されていたのである。
「一ばん出来のよかった人に、おじいさんが勲章を授与なさるそうですよ。」と母は、子供たちに笑いながら教えた。母は、祖父にそんな事で元気を恢復《かいふく》させてあげたかったのである。けれども祖父は、へんに真面目な顔になってしまって、
「いや、これは、やっぱり、みよ(母の名)にあげよう。永久に、あげましょう。孫たちを、よろしくたのみますよ。」と言った。
 子供たちは、何だか感動した。実に立派な勲章のように思われた。



底本:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:kumi
2000年3月14日公開
2005年10月28日修正
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