息の故新之助氏が、美術学校へ入学した時にも、少しも反対せぬばかりか、かえって身辺の者に誇ってさえいたというほどの豪傑である。としとって隠居してからでも、なかなか家にじっとしてはいない。家人のすきを覗《うかが》っては、ひらりと身をひるがえして裏門から脱出する。すたすた二、三丁歩いて、うしろを振り返り、家人が誰もついて来ないという事を見とどけてから、懐中より鳥打帽をひょいと取出して、あみだにかぶるのである。派手な格子縞《こうしじま》の鳥打帽であるが、ひどく古びている。けれども、これをかぶらないと散歩の気分が出ないのである。四十年間、愛用している。これをかぶって、銀座に出る。資生堂へはいって、ショコラというものを注文する。ショコラ一ぱいに、一時間も二時間も、ねばっている。あちら、こちらを見渡し、むかしの商売仲間が若い芸妓《げいぎ》などを連れて現れると、たちまち大声で呼び掛け、放すものでない。無理矢理、自分のボックスに坐らせて、ゆるゆると厭味《いやみ》を言い出す。これが、怺《こら》えられぬ楽しみである。家へ帰る時には、必ず、誰かに僅かなお土産《みやげ》を買って行く。やはり、気がひけるのである。このごろは、めっきり又、家族の御機嫌を伺うようになった。勲章を発明した。メキシコの銀貨に穴をあけて赤い絹紐《きぬひも》を通し、家族に於いて、その一週間もっとも功労のあったものに、之《これ》を贈呈するという案である。誰も、あまり欲しがらなかった。その勲章をもらったが最後、その一週間は、家に在るとき必ず胸に吊り下げていなければいけないというのであるから、家族ひとしく閉口している。母は、舅《しゅうと》に孝行であるから、それをもらっても、ありがたそうな顔をして、帯の上に、それでもなるべく目立たないように吊り下げる。祖父の晩酌のビイルを一本多くした時には、母は、いや応なしに、この勲章をその場で授与されてしまうのである。長兄も、真面目な性質であるから、たまに祖父の寄席《よせ》のお伴の功などで、うっかり授与されてしまう事があっても、それでも流石《さすが》に悪びれず、一週間、胸にちゃんと吊り下げている。長女、次男は、逃げ廻っている。長女は、私にはとてもその資格がありませんからと固辞して利巧に逃げている。殊に次男は、その勲章を自分の引出しにしまい込んで、落したと嘘をついた事さえある。祖父は、たちまち次男の嘘を看破し、次女に命じて、次男の部屋を捜査させた。次女は、運わるくそのメダルを発見したので、こんどは、次女に贈呈された。祖父は、この次女を偏愛している様子がある。次女は、一家中で最もたかぶり、少しの功も無いのに、それでも祖父は、何かというと此の次女に勲章を贈呈したがるのである。次女は、その勲章をもらうと、たいてい自分の財布の中に入れて置く。祖父は、次女にだけは、そんな除外例を許可するのである。胸に吊り下げずとも、いいのである。一家中で、多少でも、その勲章を欲しいと思っているのは、末弟だけである。末弟も流石にそれを授与されて胸に吊り下げられると、何だか恥ずかしくて落ちつかない気がするのだけれど、それを取り上げられて誰か他の人に渡される時には、ふっと淋しくなるのである。次女の留守に、次女の部屋へこっそりはいっていって財布を捜し出し、その中のメダルを懐《なつか》しそうに眺めている時もある。祖母は、この勲章を一度も授与された事が無い。はじめから、きっぱり拒否しているのである。ひどく、はっきりした人なのである。ばからしい、と言っている。この祖母は、末弟を目にいれても痛くないほど可愛がっている。末弟が一時、催眠術の研究をはじめて、祖父、母、兄たち姉たち、みんなにその術をかけてみても誰も一向にかからない。みんな、きょろきょろしている。大笑いになった。末弟ひとり泣きべそかいて、汗を流し、最後に祖母へかけてみたら、たちまちにかかった。祖母は椅子に腰かけて、こくりこくりと眠りはじめ、術者のおごそかな問いに、無心に答えるのである。
「おばあさん、花が見えるでしょう?」
「ああ、綺麗《きれい》だね。」
「なんの花ですか?」
「れんげだよ。」
「おばあさん、一ばん好きなものは何ですか?」
「おまえだよ。」
術者は、少し興覚《きょうざ》めた。
「おまえというのは、誰ですか?」
「和夫(末弟の名)じゃないか。」
傍で拝見していた家族のものが、どっと笑い出したので、祖母は覚醒した。それでも、まず、術者の面目は、保ち得たのである。とにかく祖母だけは、術にかかったのだから。でも、あとで真面目な長兄が、おばあさん、本当にかかったのですか、とこっそり心配そうに尋ねたとき、祖母は、ふんと笑って、かかるものかね、と呟《つぶや》いた。
以上が、入江家の人たち全部のだいたいの素描である。もっと、くわしく紹介したいのであるが、いまは、それよりも、この家族全部で連作した一つの可成《かな》り長い「小説」を、お知らせしたいのである。入江の家の兄妹たちは、みんな、多少ずつ文芸の趣味を持っている事は前にも言って置いた。かれらは時々、物語の連作をはじめる事がある。たいてい、曇天の日曜などに、兄妹五人、客間に集っておそろしく退屈して来ると、長兄の発案で、はじめるのである。ひとりが、思いつくままに勝手な人物を登場させて、それから順々に、その人物の運命やら何やらを捏造《ねつぞう》していって、ついに一篇の物語を創造するという遊戯である。簡単にすみそうな物語なら、その場で順々に口で言って片附けてしまうのであるが、発端から大いに面白そうな時には、大事をとって、順々に原稿用紙に書いて廻すことにしている。そのような、かれら五人の合作の「小説」が、すでに四、五篇も、たまっている筈《はず》である。たまには、祖父、祖母、母もお手伝いする事になっている。このたびの、やや長い物語にも、やはり、祖父、祖母、母のお手伝いが在るようである。
その二
たいてい末弟が、よく出来もしない癖に、まず、まっさきに物語る。そうして、たいてい失敗する。けれども末弟は、絶望しない。こんどこそと意気込む。お正月五日間のお休みの時、かれらは、少し退屈して、れいの物語の遊戯をはじめた。その時も、末弟は、僕にやらせて下さい僕に、と先陣を志願した。まいどの事ではあり、兄姉たちは笑ってゆるした。このたびは、としのはじめの物語でもあり、大事をとって、原稿用紙にきちんと書いて順々に廻すことにした。締切は翌日の朝。めいめいが一日たっぷり考えて書く事が出来る。五日目の夜か、六日目の朝には、一篇の物語が完成する。それまでの五日間、かれら五人の兄妹たちは、幽《かす》かに緊張し、ほのかに生き甲斐《がい》を感じている。
末弟は、れいに依って先陣を志願し、ゆるされて発端を説き起す事になったが、さて、何の腹案も無い。スランプなのかも知れない。ひき受けなければよかったと思った。一月一日、他の兄姉たちは、それぞれ、よそへ遊びに出てしまった。祖父は勿論、早朝から燕尾服《えんびふく》を着て姿を消したのである。家に残っているのは、祖母と母だけである。末弟は、自分の勉強室で、鉛筆をけずり直してばかりいた。泣きたくなって来た。万事窮して、とうとう悪事をたくらんだ。剽窃《ひょうせつ》である。これより他は、無いと思った。胸をどきどきさせて、アンデルセン童話集、グリム物語、ホオムズの冒険などを読み漁《あさ》った。あちこちから盗んで、どうやら、まとめた。
――むかし北の国の森の中に、おそろしい魔法使いの婆さんが住んでいました。実に、悪い醜い婆さんでありましたが、一人娘のラプンツェルにだけは優しく、毎日、金の櫛《くし》で髪をすいてやって可愛がっていました。ラプンツェルは、美しい子でした。そうして、たいへん活溌な子でした。十四になったら、もう、婆さんの言う事をきかなくなりました。婆さんを逆に時々、叱る事さえありました。それでも、婆さんはラプンツェルを可愛くてたまらないので、笑って負けていました。森の樹々が、木枯しに吹かれて一日一日、素肌をあらわし、魔法使いの家でも、そろそろ冬籠《ふゆごも》りの仕度に取りかかりはじめた頃、素張《すば》らしい獲物がこの魔法の森の中に迷い込みました。馬に乗った綺麗な王子が、たそがれの森の中に迷い込んで来たのです。それは、この国の十六歳の王子でした。狩に夢中になり、家来たちにはぐれてしまい、帰りの道を見失ってしまったのでした。王子の金《きん》の鎧《よろい》は、薄暗い森の中で松明《たいまつ》のように光っていました。婆さんは、これを見のがす筈は、ありません。風のように家を飛び出し、たちまち王子を、馬からひきずり落してしまいました。
「この坊ちゃんは、肥えているわい。この肌の白さは、どうじゃ。胡桃《くるみ》の実で肥やしたんじゃな!」と喉《のど》を鳴らして言いました。婆さんは長い剛《こわ》い髭《ひげ》を生やしていて、眉毛は目の上までかぶさっているのです。「まるで、ふとらした小羊そっくりじゃ。さて、味はどんなもんじゃろ。冬籠りには、こいつの塩漬けが一ばんいい。」とにたにた笑いながら短刀を引き抜き、王子の白い喉にねらいをつけた瞬間、
「あっ!」と婆さんは叫びました。婆さんは娘のラプンツェルに、耳を噛《か》まれてしまったからです。ラプンツェルは婆さんの背中に飛びついて、婆さんの左の耳朶《みみたぶ》を、いやというほど噛んで放さないのでした。
「ラプンツェルや、ゆるしておくれ。」と婆さんは、娘を可愛がって甘やかしていますから、ちっとも怒らず、無理に笑ってあやまりました。ラプンツェルは、婆さんの背中をゆすぶって、
「この子は、あたしと遊ぶんだよ。この綺麗な子を、あたしにおくれ。」と、だだをこねました。可愛がられ、わがままに育てられていますから、とても強情で、一度言い出したら、もう後へは引きません。婆さんは、王子を殺して塩漬けにするのを一晩だけ、がまんしてやろうと思いました。
「よし、よし。おまえにあげるわよ。今晩は、おまえのお客様に、うんと御馳走してやろう。その代り、あしたになったら、婆さんにかえして下され。」
ラプンツェルは、首肯《うなず》きました。その夜、王子は魔法の家で、たいへん優しくされましたが、生きた心地もありませんでした。晩の御馳走は、蛙《かえる》の焼串《やきぐし》、小さい子供の指を詰めた蝮《まむし》の皮、天狗茸《てんぐだけ》と二十日鼠《はつかねずみ》のしめった鼻と青虫の五臓とで作ったサラダ、飲み物は、沼の女の作った青みどろのお酒と、墓穴から出来る硝酸酒とでした。錆《さ》びた釘《くぎ》と教会の窓ガラスとが食後のお菓子でした。王子は、見ただけで胸が悪くなり、どれにも手を附けませんでしたが、婆さんと、ラプンツェルは、おいしいおいしいと言って飲み食いしました。いずれも、この家の、とって置きの料理なのでありました。食事がすむと、ラプンツェルは、王子の手をとって自分の部屋へ連れて行きました。ラプンツェルは、王子と同じくらいの背丈《せたけ》でした。部屋へはいってから、王子の肩を抱いて、王子の顔を覗《のぞ》き、小さい声で言いました。
「お前があたしを嫌いにならないうちは、お前を殺させはしないよ。お前、王子さまなんだろ?」
ラプンツェルの髪の毛は、婆さんに毎日すいてもらっているお蔭で、まるで黄金をつむいだように美事に光り、脚の辺まで伸びていました。顔は天使のように、ふっくりして、黄色い薔薇《ばら》の感じでありました。唇は小さく莓《いちご》のように真赤でした。目は黒く澄んで、どこか悲しみをたたえていました。王子は、いままで、こんな美しい女の子を見た事がない、と思いました。
「ええ。」と王子は低く答えて、少し気もゆるんで、涙をぽたぽた落しました。
ラプンツェルは、黒く澄んだ目で、じっと王子を見つめていましたが、ちょっと首肯いて、
「お前があたしを嫌いになっても、人に殺させはしないよ。そうなったら、あたしが自分で殺してやる。」と言って、自分も泣いてしまいました。それから急に大声で
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